一国一藩の安危よりも自分の保身から物事を思考し

「が、どうせ骨の髄からそうおもっているのではない」

と最初から見ぬいていたのは、井上聞多(のちの井上馨)であった。井上はアーネスト・サトーと同様、役人というものを知っていた。一国一藩の安危よりも自分の保身から物事を思考し、大事をきめるときは、かならず会議をし、すべての責任は「会議」がとるという建前をとり、責任を問われれば、

「自分一個はそうはおもっていないが、会議でそうきまったことだから」

という理屈をつかって責任の所在を蒸発させてしまう世界であるということを井上ほど知っていた者はいない。

・・・公卿たちは、べつに世界観というものはもっていなかった。ただ本願寺法主が念仏をとなえるようにして攘夷をとなえているにすぎない。

《司馬遼太郎 世に棲む日々(三) ヤクニンの章》


井上聞多の、役人相手に志を貫き、カウンターパンチをかます一連のやり取りが胸に響く。明治政府の要職に就いたのも頷ける。

会議の使われ方は考えさせられる。オーソライズのための会議がなくなったらどうなるか?その分の時間を創造的なアイデア出しのワイワイガヤガヤ会議に変えたら組織の価値はどう変わるのか?皆さんはどう思いますか???

そもそも世界観を持って日常業務ができているか?締切も大事だけど、世界観なき日常業務って、ロボットに変わる。

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