4月20日に見た夢

1「夢」


午前3時34分

母と妹が殺されてしまって、
二人の魂は、小さな女の子の身体に閉じ込められた。

私は、彼女たちは、死んでしまったと思った。
白い布にくるまれた、その遺体をずっと、抱きしめて眠っていた。

そしたら、まだ生きていた。手を握り返してくれたのだから。
奇妙なことに、その手はとても、温かかった。

場面は変わる。
母と妹の魂が入った女の子は、田舎の蕎麦屋の前の石垣にちょこんと座って、白むすびを食べていた。
私は、その子を横目に、蕎麦屋に入った。

そこには、おばあさんたちがいた。
おじいさんもいた。
子どももいた。
お勘定に立つのは、私と年の変わらない若い女性だった。
私が受け取る予定の食事の中身がわかっていない様子だった。
彼女がもたもたしている後ろで、店にいた他の客たちが何かを始めた。
そこで、知り合いがいたことに気が付いた。

ふと、電気がついていないことに気が付いた。
真っ暗だった。
真っ暗の飲食店なんて、変だ。

結局、だれも電気をつけようとしないから、
つけようとしたら、つかなくて、
そこで異変に気が付いた。

誰かがわたしをおいかけてきた。
というわけではないのに。
私はそこから逃げた。

走った。
出口はすぐにわかった。
店の正面玄関には、立派に咲き誇る、桜の木のステンドグラス。
そこに、ただ、「想う」と縦書きで書いてあった。

店を出て、もはや、女の子がいないことに気が付いたところで、
目が覚めた。

2「現実」

安心感して寝れたと思ったのに、
こういう夢を見てしまったのはなぜなのだろう。

絶望でいっぱいの感情に耐えられず、
飛び起きた。
動悸がしていた。

高校生の時、よく、泣きながら目が覚めていたことがある。

このまま眠ったら、また・・・
生きる。楽しさ?わからない。
悪夢を見るのは、PMSの影響による鬱状態からなのだろうか。

死んだ、人と一緒に、寝ていた。
思えば奇妙だ。

彼女は、手を握り返してくれた。

よく、祖父の家を去る時、彼のその大きな手と握手をするのが慣習だった。
その力強さと、死後の無力さ。

死んだと思ったのに、まだ生きていた。
それは、願望だ。

小さなころから、生き物が死んだあとの様子をみてきた。
祖父母、父、犬。
何度も生き返らないかなと思っていた。

人間の場合は、「死」が同じ空間で起きているのに、
人々は悲しみを盛大に表現せず、
まるで違う空間で起きていることのようで
なんだか綺麗すぎる。
その後、「葬式」と言う儀式をするのも、
形式に則り、宗教的で慣習的な行動をとることで、
「死」という日常の中の非日常にある
異常な精神状態を抑圧しようとしているように見える。

まるで、「死」を遠ざけているようだ。
ただ、犬が死んだときの臨場感は強烈だった。
彼は私の腕の中にいた。
臓器の筋肉が弛緩し、汚物が私の膝にあたたかく放出された。
ああ、こうやって死ぬんだなって。
だらんと力の無い身体が私の膝にあるだけだった。
彼の死の一か月前から、彼の目はうつろで、
魂はもうここに無いような気がしていた。
兆候のある「死」は、突然の「死」に比べて、幸せなのだろうか。
兆候があったとて、こちらの精神的肉体的負担は凄まじく。
最期まで、後悔の無くかかわるというのは、
不可能ではないか。と思ってしまう。

彼らが、死の直前、何を「想う」のか、
分かってあげられなかったという後悔。
それが、心残りで。
それで絶望が涙として表出されたのかもしれない。

***

私にとって、温かい生物と眠ることは、
リラックスではなく、死を意味してしまう。

それは、死の対象。
いつかいなくなる。
空虚の温もり。
虚無の偶像。

人間とは、別れの象徴。
別れの兆候。
温もりは死。


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