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学びは誰のために…

またまたご無沙汰しておりましたが、元気です。

この頃、参加させて頂いているところでは、けっこうコンスタントに発信していたのですが、なかなか上手にこなせない性格でして…。各所滞っているところがあります。こんなところも上手になりたい。(笑)

先日、学びの時間に「あなたのため学びですか?お子さんのための学びですか?」と問われた質問があって、「ほぉ~」っと思いました。

そっか…。そうだよね。改めて問われないと考えられない…。
そんな訳で考えてみたわけなのですが、私はつながりだなぁ~と感じています。子どものために学んだと思ったら、私につながっていて、私のために学んだと思ったら、それが私の周りに還元できたらな…そんな事を思っています。たぶん、誰かが学んでくれたことが私に返ってきていると感じている今日この頃でもあるかな…。

このブログの名前は、「Cita」と言います。実は…。
20年前ぐらいにバリを旅した時に街にあふれている感覚が独特だったのを時々思い出しては、あの感覚をもう一度体感したいと思っています。
その感覚は、朝起きた瞬間から感覚の違いを感じられる本当に独特のもの。それでバリにちなんで、インドネシア語の「感覚」という言葉である「Cita」という名前を付けました。

英語も本当にカタコトで、一緒に行った先輩に通訳してもらいながら過ごしていたけれど、私がバリに行きたかった動機であるアタの籠を何度も見に行ったお店の事が「感覚」というところで、とても印象的な出来事でした。

というのも、そのお店にはまだ学生のような男の子がいて、見に行くと挨拶を交わす男の子だった訳なのですが、大きな籠が欲しかった私はその籠を最終日に買いに行く事にしていて、そのお店を最後にバリを旅立つ予定でした。

お店に入って、もう決めていたその籠をレジに持っていくか行かないか…そんな時にその男の子が私たちのもとにやってくるのです。「今日は、とっても悲しそうな目をしているね。」と…。(まぁ、訳してもらっている訳なのですが(笑))

当たり前と言えば当たり前なのかもしれないけれど…。当り前じゃないともいえると思うのです。

私たちが見えていない物と捉えているものって、本当に見えていないのか?とか
聞こえていないと思っているけれど、聞こえている音ってあるような気がする事とか…。

言葉を話せないからこその空気での会話だったのか…。
見えるとか聞こえるとか話せるとか…
出来るとされている事じゃない感覚…
忘れちゃっているような感覚。

それを取り戻す事で、誰かを幸せにするような事があると思うのです。
だから、私のために学びたいし、学ぶことが子どもや誰かに還っていく。
そんな事を思っています。
そして、感覚を通した学びをしたいなと思う今日この頃です。

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