この秋、私は、シンパイさんから脱皮する。
近年の私は、心配しすぎのシンパイさんだ。
さかのぼってみると、妊娠したころから、シンパイさんになったように思う。
「ちゃんとおなかで育つかな」から始まって、「もし自分が病気になったら、どうしよう」とか「もし自分が風邪をひいたら……」など、大したことでもないのに心配してきた。
まあ、妊娠って人の命を預かっているわけだし、慎重になるのはいいことでもあったとは思う。けれど、出産したあともそのまま心配する人になってしまった。
子どもが小学生になった今は、「誘拐されたら、どうしよう」「子どもが交通事故に遭わないか心配だ」と、日々心配しまくっている。
今書きながら気づいたが、私はいつも自分ではどうしようもないことを心配している……。そんなことを心配してもどうしようもないんじゃないか、自分。
「インサイド・ヘッド2」という映画に、心配しすぎるヤツが出てきた。
映画の公式サイトによると、「大人の感情」で、「最悪の将来を想像し、あたふたと必要以上に準備してしまう」という特性があるそう。
うおーーーーそれだそれ!!
私の心配は、ほとんどが子どもに関することで、子どものあれこれが心配で心配で、「必要以上に準備して」しまっている(ような気がする)。
子どもが誘拐されないように、交通事故に遭わないように、くどくどくどくどと、若干、脅迫かもしれないくらいにぶつぶつ言っている。
「インサイド・ヘッド2」のシンパイ、結構うざいヤツだったぞ。
私、今、あいつと同じかもしれない。多分、うざうざのシンパイさんだわ。
この夏、OVER THE SUN PARKで、おみくじを引いた。
何の気なしに受け取ったおみくじには、「心配は失敗のイトコ」とあった。
その瞬間、ビビビと来ちゃいましたー。
そうか、心配って、まあまあ近い感じで心配とつながっているのね、と。
ふと、保活時代のことが思い出された。
数年前、保育園の待機児童が大勢いる地域で子育てしていたころのこと。あの頃の私は、「保育園? 余裕で入れるよ」と思っていたし、実際に、第一希望の保育園に入れたのだった。根拠はなかったけれど、たしかにあの頃は微塵も心配などしていなかった。
そういう、不遜なまでの自信が、かつての私にはあった。特に、社会人になるくらいのころまでは、そんな自信に満ち満ちていたことも思い出した。なんていうか、自分を、自然に信じていたんだと思う。
子どもの保育園の卒園式で、園長先生がお話されたことを、時々思い出す。
「ここまでは、子どもたちのお世話をする時期でした。でもここから(小学校入学から)は、見守る段階になります。見守るのは、難しいです。見守るということは、子どもを信じることなんです」というようなお話だった。
見守ること。それは、子どもを信じること。
信じていないと、心配が次から次に押し寄せるのだろう。
子どもは、たしかに私よりも経験値は少ない。だから失敗もするし泣いたりもする。それでも、そんな失敗や泣きべそも、実は大したことないんじゃないかなあと思う。
自分のこれまでを振り返っても、失敗やそれによる恥ずかしい思いなどたくさんした(、と思う)。けれど、そんなことはもうほとんど覚えていない。
それに、よく言われるように、失敗してこそ学ぶこともあるし、考えたりもする。それが、その人を支えていく。
それをわかっているのに子どもをむやみに心配し、ジクジクと忠告するのは、単なる私の不安を落ち着かせるためなのかもしれない。
これは、よくない!
ということで、
この秋、私は、シンパイさんから脱皮しようと思う。
そのために、ただ心配するのではなく、子どもを信じようと思う。気持ちをぎゅっと強く持って、信じよう。
大丈夫、うちの子は、信じるに足るだけの人になっているから。