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礼真琴さんと舞空瞳さんの『ロミオとジュリエット』

5月23日、星組の『ロミオとジュリエット』が大千穐楽を迎えた。

東京公演中にCOVID-19の感染拡大による緊急事態宣言が出て、2週間上演が中断してしまったけれど、再開後は無事に最後まで上演でき、関係者の皆さんは安堵したことだろう。

わたしは、配信では、A日程、B日程合わせて6回半を観たのかな(大劇場公演を含む)。東京宝塚劇場では、B、Aの順で、1回ずつ観ることができた。

A日程を観劇したのは、中断期間を経ての5月20日。「やっと劇場に来れた。ヴェローナに来た」。そんな気持ちで、礼真琴、舞空瞳による『ロミオとジュリエット』を堪能し尽くした。

ライブ配信でも楽しんだけれど、舞台装置が動き、ライトが当たり、セリフや歌や音楽を浴びながら、身と心を好きな舞台に捧げる数時間は、やはり格別。たんぽぽの綿毛を持って銀橋を歩くロミオの姿、若者たちの暴力、ティボルトからマーキューシオ、ロミオと、死のナイフが渡っていくシーン…。目の前で起こる一つ一つの出来事が心に刻まれるのも、ひとつづきの物語を自分の目が観るからだ。

ジェラール・プレスギュルヴィック作の『ロミオとジュリエット』が、どの場面もドラマチックですばらしいことはもはや書く必要もないとは思うけれど、コロナ禍の制約をくぐり抜けて観ると、物語をあまさず表現した音楽に合わせ、二人の恋が観客の胸に刻まれるように演劇的な演出がなされていることに心動かされる。

たとえば、ロミオとジュリエットがまだ出会っていない一幕の冒頭には、恋の予感を表現したエアー・デュエット「いつか」が用意されている。

ロミオは、まだ見ぬ恋人を思いながら森を歩いている。ジュリエットは、恋の舞台となるバルコニーに出て、まだ見ぬ恋人と巡り合うことを願う。
最初はロミオが、まだ名前をもたない恋人への思いをソロナンバーにして歌い、続いてジュリエットのソロへとつながる。
ナンバーが始まったときは、それぞれ違う方向を見ていた二人が、盆が回ってジュリエットのいるバルコニーが移動し、銀橋の森を歩いていたロミオも歩みを止め、歌がサビに達すると、二人は舞台のセンターライン上に立っている。銀橋と舞台奥にしつらえられた高いバルコニーの上と、距離はまだ遠く離れているけれど、同線上から同じ方向を見て、同じように両腕を広げて歌声も重なり合う。物語上はソロ曲だけれど、観客には美しいデュエットとして届く。二足の同じ靴を履いているように。

そうそう、この感じ。ライブ配信やライブ上映を否定するつもりはないけれど、劇場で見なければ感じ取れないものの一つだ。

役替わりもあり、観る人によってさまざまな『ロミオとジュリエット』の物語が届いていることを前提にした上でいうのだけれど、2021年星組版は、なんといっても礼真琴、舞空瞳のロミオとジュリエットがすばらしかったと思う。二人はどの場面でも、歌と芝居とダンスとパッションで、若さゆえのまっすぐな恋の物語を細やかに丁寧に表現して見せてくれた。

ふたつの「ロミオとジュリエット」

二つのパターンについて書いておこう。大劇場での公演を配信で見たときは、A日程のほうがキャストもぴったりで作品世界を表現していて、B日程は、面白いけれど、まとまりがないと感じた。それが東京に来て、キャピュレットとモンタギューの大人たちの歌と芝居が落ち着いてきたこともあって、AとBそれぞれの『ロミオとジュリエット』が出来上がっていったのを感じた。

これは私の印象に過ぎないけれど、B日程の『ロミオとジュリエット』は、憎しみに絡め取られた悲劇。死の淵へ引きずり込もうとするような死(愛月ひかる)のパフォーマンスが全体を闇で覆う。大人たちが始めた憎しみを背負わされ、精算せさざるを得なかった若者たちの悲劇と感じた。ゴッサムシティのようなヴェローナの街で、ロミオとジュリエットももがきながら恋を貫こうとした。ティボルト(瀬央ゆりあ)、マーキューシオ(天華えま)、ベンヴォーリオ(綺城ひか理)は、怒りを社会のシステムや大人たちに向けているように見えた。

A日程の『ロミオとジュリエット』は、憎しみではなく、愛ゆえに運命が狂っていく悲喜劇。ティボルト(愛月ひかる)は、ジュリエットへの報われない愛ゆえに憎しみをふくらませナイフを神と崇め、ロミオに向ける。その憎しみをロミオへの愛ゆえにマーキューシオ(極美慎)は受けることになり、そのマーキューシオへの愛がロミオにナイフを握らせてしまう。そして、ジュリエットの死を告げたのがベンヴォーリオ(瀬央ゆりあ)だったから、ロミオは疑うことすらせずに信じてしまったのだ。

B日程のキャストと較べると、ロミオ、マーキューシオ、ベンヴォーリオの三人の強い絆を感じる。そして、ティボルトを含め、みんな社会にはまだ目が向かず、目の前の君と自分のことだけで精一杯。A日程よりも、小さな世界に生きている無力な子どもたちで、ファンタジー性が強いと感じた。死(天華えま)のパフォーマンスも、ちょっとした気まぐれで運命を動かした、くらいの軽さがある。そもそも今の時代よりも、死が身近だった時代の話だし、個人的には、『真夏の夜の夢』の妖精パックみたいな「死」でもいいんじゃないかと思ったくらい。

恋と愛といたずらが運命をスライドさせていくロミオとジュリエットの物語になっていて、そこがとても好きだった。物語の最後は、分別のある者と大人たちばかりが残り、無謀な若者たちは死んでしまうというブラックさだけれど、その後に、天国で出会ったロミオとジュリエットが名前のないパラダイスで子どものように遊ぶエピローグがついた宝塚版には、これくらいが合っていると思う。もちろん私の好みに過ぎないけれど。

ともあれ、二つの『ロミオとジュリエット』の違いがこれだけ浮き上がったのも、演者たちが舞台の上でそれぞれの作品を深めていった結果だと思う。

「名前に意味はない」

ロミオとジュリエットの個性がくっきりとしていたことも、2021年星組版のすばらしさだ。

これは、礼真琴、舞空瞳の表現力によるところが大きい。これまでの何人ものロミオとジュリエットがいたから、ここに到達できたのだと思うけれど。

礼真琴のロミオは本当に王子さまだった。見た目だけにとどまらず、精神の気高さを感じさせたという点で、出色のロミオだったと思う。

《街に噂が》と《決闘》のナンバーで、強いビートに乗って、仲間たちの声を遮るように力強くシャウトするロミオの言葉に胸をえぐられるようだった。
「やめるんだ二人とも、殺し合って何が残る」
「この世界は誰にも意味がある」
「誰が誰を好きになってもいい」
「愛し合う心は誰もが変わらない」
「誰もが自由に生きる権利がある」
政治や社会に対する不満が高まり、COVID-19や差別や同調圧力が蔓延する、今の日本の状況と相まって、さらに強く響いてきたのかもしれない(蛇足だけれど、シェイクスピアが『ロミオとジュリエット』を書いたのが1590年代の半ばとすると、その数年前にペストが大流行し、その間ロンドンの劇場は閉鎖されていたという。そのときの体験が『ロミオとジュリエット』に生かされているのだという)。そう、これは今の世界での話でもあるのだ。胸に刻んだメッセージを舞台上の出来事と断ち切らずに、この舞台から持ち帰らなくてはと思う。

バルコニーの場面でのデュエット《愛の誓い》からも強いメッセージを感じた。

「恋の翼に乗って」高い塀を登って行くロミオの姿を感じ取れる幸福。
「ああ、ロミオ、ロミオ、あなたはどうしてロミオなの?」から始まるシェイクスピアの書いた二人の恋の会話をぎゅっと短くしてデュエットソングにしているのに、セリフをすべて聞いているような深さに感じ入ってしまう。

薔薇という名前の花は、名前がなくても変わらない。(家を示す)名前には意味はない。大切なのは変わらない愛。名前を捨てて、この薔薇の花のように二人の愛を育てよう。

名前に意味はない。

夫婦がどちらかの好きな姓を名乗る自由も許されない日本を保守とようとする人たちに見せてやりたい。『ロミオとジュリエット』のラストをごらん。そのうちに若者たちはどんどん死んでいってしまうよ。

バルコニーのジュリエットは本当にチャーミングだ。突然の出来事に驚き、喜び、くるくる表情を変えながらも、自分で決断していく。わがままを言っているのではない。「家のための結婚はしない。愛する人と結婚したい」という揺るぎない信念を持っている。大体、神父様からの提案だとはいえ、命を落とすかもしれない突拍子もない作戦を決行し、ロミオが死んだと知るや、迷わずナイフを胸にまっすぐに突き刺す、勇気ある少女なのだ。舞空瞳さんは、ジュリエットの勇敢さをあまさず表現していたと思う。

エクストリーム・デュエットダンス

フィナーレがまたため息ものだった。本編とはうって変わって、全体がスタイリッシュなスパニッシュ仕立て。ティボルト(愛月ひかる/瀬央ゆりあ)が銀橋で「愛の誓い」を歌い、ロケット、せり上がりで登場した礼真琴さんを中心とした大階段を使ったキレキレの男役群舞。振り数は最小限、それが音楽に合わせて群舞がビシッとキマる。ここでも、礼真琴の統率力が光る。娘役さんたちが絡み、愛月さんを中心とした男役の場面へ。

圧巻はデュエットダンスだ。
始まりはミディアムテンポ。礼真琴さんが銀橋で「エメ」からほんの数フレーズを歌うのだけど、これがめちゃくちゃカッコいい。ゆっくりと湧き立つ色気に息をのむ。一幕の冒頭で、たんぽぽの綿毛を吹いていたのと同じポーズから、手に愛を誓った薔薇の花を持っているかのように、見えない花を差し出す。舞台上にはセリ上がってきた舞空さんもいる。

二人が揃うと、音楽はアップテンポになり、一気にキレのあるスパニッシュ風のダンスが始まる。スケートのペアダンスかEXスポーツの競技を見ているような緊張感があるデュエット・ダンスだ。ここでは礼さんは相手役をサポートする男役ではない。舞空さんも寄り添うように可憐に踊る娘役ではない。フラメンコの手拍子に合わせるように、同じ振りを踊る。礼さんと舞空さんの二人で、ロミオとジュリエットのパッションを踊るのだ。

数分のダンスナンバーは、二人の恋をそのまま表現したよう。れいまこさんが舞台下手で一回、きれいに高く跳躍を見せる場面では、「あ、いま、ロミオがジュリエットのバルコニーに跳んだ」と思う。マイソラさんが一瞬、宙高くきれいにリフトされると、「ジュリエットが神父様にもらった薬を飲んだのかな」と思う。二人の「パッション」が舞台上に炸裂する。この疾走感が、この『ロミオとジュリエット』の軸になっていたのだ。

最高。本当にすばらしい『ロミオとジュリエット』だった。
今の礼真琴さんと舞空瞳さんでこの作品を観ることができ、幸運な観客でした。これまで前例はないし、望まない人もいるかもしれないけれど、数年後、できれば宝塚でのキャリアの最後に、ぜひ再演をしてほしいと思う。そのときにどんな『ロミオとジュリエット』になるのかを見てみたい。ささやかながら、ここにリクエストしておきます。

最後になるけれど、ロレンス神父役の英真なおきさんと、乳母役の有沙瞳さんもすばらしかった。この二人がいたから、A日程とB日程、それぞれ異なる世界観の『ロミオとジュリエット』をつくりあげることができたのだと思う。

画像に使っているのは、リスベート・ツヴェルガーが描いた絵本『ロミオとジュリエット』のバルコニーの部分です。ツヴェルガーの解釈はちょっと宝塚風で、大好きな絵本です。

ツヴェルガー「ロミオとジュリエット」

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