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不平等の根絶

 平等とは特定の属性に即して人の扱いを決めることだが、その属性として何を選ぶかによって人の扱いは変わる。ある属性に基づく平等を実現すれば、必ず他の不平等をもたらしてしまうからだ。複数の属性に配慮したとしてもそ、その優先順位やウェイトの置き方次第でさらなる不平等が生じる。人は誰も自分が理由なく他人より不利な扱いを受けると不平等だと怒ってしまう。

 ドゥオーキンは、ロールズよりも平等を優先的に考える解釈を与えている。曰く、原初状態の基礎には自然的かつ抽象的な権利があって、それは基本的自由への権利と、誰もが平等に配慮され尊重されたいと求める権利である。

 政府が人々に対してなすべき配慮とは、人々に苦痛や挫折を感じさせないように扱うことであり、尊重とは、人々が自分で選択した生き方を貫けるようにすることである。政府は人々が所得の高低、性別・人種の違い、技能や心身障害の有無・程度などの事情によって、他人より劣った扱いを受けていると感じ苦しむことがないようにしなければならないということである。政府が国民に資源を平等に分配すべきだというときに、この他人が持っているものが羨ましいという気持ちも考慮に入れるべきだとしているところである。そこで彼は、真の資源の平等を実現するために、各人にとって必要な資源は市場における取引で最終的に入手され「他人の所有物を羨ましく思わなくなる」まで競売すれば、真の平等が実現される。

 人が財の消費からうける満足のことを経済学的には「厚生」と呼ぶ。この資源の平等という議論は、各人がそれぞれの思考のままに幸せを感じていればそれでいいのだ、つまり厚生がすべての人において実現されていれば平等ということなのだと誤解される。500円の牛丼で満足な人と、10万円のフレンチでないと満足しない人に対して、政府が払うべき費用は大きく異なる。

 ドゥオーキンの言いたいことは、平等なものとして処遇される権利が実現されるべき人々は二人の子供の例で言うと病気の子、つまりこの社会ではまず長らく差別されてきたマイノリティなのであり、そういう人々こそ優先的に法曹教育を受けるべきである。たとえばマイノリティの法曹を一人でも増やした方が真の平等実現という社会利益の実現に貢献する。

 アマルティア・センの資源の平等論は、身体の不自由な人や開発途上国で受けに苦しみ病に侵され、戦禍に怯える人々に目を向け、ロールズの正義論を、目的達成能力や社会的環境の違いによって生ずる不平等にも対応できるものにしようとしたところにある。

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