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ルーズベルト大統領のニューディール政策の中身

 銀行の再開と並んで100日議会の最初に注力したのは、財政の健全化だった。この頃のルーズベルトは均衡財政を支持していた。財政赤字を削減するために出したのが経済法案だった。一つには、連邦政府の省庁統廃合、連邦職員、議員、大統領の給与削減などの行政改革だった。同時に連邦財政の4分の1を占めていた退役軍人への恩給を半分することを提案した。これはフーバーの時のように国民の怒りを再燃させる可能性があった。

 怒った退役軍人はワシントンへ集結した。ルーズベルトはそのデモの集団が野宿している場所に、妻のエレノアを行かせた。退役軍人たちは驚いた。エレノアは、一人一人に食料品や薬品を手渡して周り、彼らの不満や要求に熱心に耳を傾けた。職がなく、その上、恩給が減らされては生活できないと訴える者には、政府が雇用を提供することを約束した。フーバーには真似できない人身掌握力だった。

 しかし最終的に成立した経済法案は削減額が2億4300万ドルと大幅に減り、他は現状と大きな差はなかった。

 その成立の二日後、ビール・ワイン歳入法が成立し、1920年から続いた禁酒法が撤廃された。これによりアルコール関連の税収は一年間で連邦政府の歳入の9%にあたる2億5800万ドルにのぼった。アルコール飲料の製造と販売は、景気浮揚策の一つとなった。

 大恐慌の原因は1920年代に投機的な投資が過熱し、株価が急騰してバブルが弾けたとの認識にあったルーズベルトは、構造的な金融制度の改革に乗り出した。1933年銀行法の最大の目的は、商業銀行と投資銀行を分離して、銀行業務と証券業務の兼業を禁止することにあった。その根底にある考え方は、商業銀行が、資金を過度に投機的な証券業務に向けたことが大恐慌につながったという認識だった。銀行業務と証券業務を分けることによって、銀行の資産を安全で効果的に活用させることを目指した。

 また預金者を保護するために連邦預金保険公社を設立し、34年1月に2500ドルまで、7月に5000ドルまでの預金が保証されることになった。のちにフリードマンはこの公社を「南北戦争以降、最も需要な経済の構造的な変革である」と称している。さらに証券市場における不透明な取引が投機を加熱させ、株価の大暴落を引き起こしたという認識から、1933年証券法が制定された。それにより、証券を発行しようとする者は、投資家に対し十分な情報を提供しなければならないことが定められた。さらに翌年は証券取引委員会が設立され、証券市場の監視及び証券取引に関する法律の責任を負うことになった。

 農民を支持母体としていたルーズベルトは、具体的な農業政策のアイディアを持っていたわけではない。就任後まず行ったのは、専門家や関係者からのヒアリングだった。そこから明らかになったのは農産物の過剰生産だった。アメリカは第一次大戦期にヨーロッパへの食料供給のため、農作物の大規模な増産が行われたが、戦後もその状態が続いていた。農産物が過剰に生産され、農産物の価格が低迷し、農民の収入が減る。それを補うためにさらに生産するという悪循環によって、農民は慢性的に苦しい生活を強いられていた。大恐慌が世界的に拡大していく中で、海外の市場も縮小し、事態はますます悪化した。

 農作物の過剰生産を止めるための施策として農業調整法(AAA)が制定された。この法律は、連邦政府が指定した農産物の生産削減に協力した農民に補助金を支給することを定めた。AAAによる生産制限は、法律の成立直後から始められた。すでに五月に入っており、生育途中の農作物が根こそぎ刈り取られ、飼育中の豚も殺処分された。このようなAAAの強権的なやり方に国民から批判が相次いだが、ルーズベルトは耳を貸さなかった。AAAの施行後、農産物の価格は徐々に上昇し始め、一定の成果を上げていたからであった。しかしその恩恵を受けたのは土地を所有し大規模な農業を行っている農民だけだった。土地を持たない小作農や農業労働者の中には作付面積が減らされたため、生活が以前にも増して困窮したのもあった。

 1933年5月にはテネシー流域開発公社(TVA)法に基づいてテネシー川とその流域のダム建設、治水事業、植林などの総合的な開発が始まった。TVAは開発の遅れていた南部の農村の電化を進め、地域産業を進行することを目的としていた。また、ダム建設によって大量の雇用が生み出されるため、失業対策としても大きな効果が期待された。

 テネシー川流域の農村は平均年収が639ドルとアメリカの中でも非常に貧しい地域であり、大恐慌により困窮の度合いを一層深めていた。マラリアなどの伝染病が流行したり、河川の氾濫により土地が侵食されて工作が困難な地域もあった。

 TVAはテネシー川の流域に20のダムを建設し、安価な電力を安定的に供給した。また農業技術を指導したり、山火事や洪水などの自然災害への対策を講じるものもあった。さらに観光地としての進行も進めた。

 100日議会の最終日には、全国産業復興法(NIRA)が成立した。これは工業製品などの価格と労働者の賃金の下落を食い止めることによって、産業の復興を目指すものだった。

 ルーズベルトの基本的な考え方は、1920年代を通じて多くの企業が過当競争を続けたため、製品の価格と賃金が下がり、大恐慌を引き起こしたというものだった。政府と実業界の協調的な関係のもとで、企業の競争を制限し、秩序だった生産を行う目の制度を作り出すことで、景気の回復を図ろうとした。これを施行する期間として全国復興庁(NRA)が設立された。

 NIRAは産業ごとに企業団体を組織させ、そこで公正規約コードを作り、製品やサービスの価格と生産量、労働者の賃金や労働時間を決めさせた。それぞれのコードはNRAによって審査され、認可後は企業がそのコードを守っているか、NRAが監督した。NIRAの第7条は労働者の権利を擁護し、労働組合の結成と団体交渉権を認めたことから、労働者の「マグナカルタ」と呼ばれた。

 NIRAは雇用の創出にも関わった。失業者に雇用を提供するために公共事業局(PWA)を設立し、道路や橋、学校や病院などの公共事業を行った。アメリカで使用される年間のコンクリートの半分、鉄鋼の3分の1をPWAが使った。NRAとPWAは「二つの肺であり、死にかけている産業部門が息を吹き返すためにどちらも必要である」とされた。

 100日議会で大きな期待が寄せられたのは、失業やに対する救済策だった。ルーズベルトはフロリダ州知事が使われていない農地を買い取り、そこで失業者に仕事をさせているという話を耳にして、そうしたプロジェクトを全国レベルで展開できないかと考えた。ニューヨーク州知事時代にも、1万人の男性を植林のために雇用した経験があり、闇雲に公共事業で建物を建設するのではなく、天然資源の保全や自然保護につながるような事業を行い、そこで失業者を雇用するという方針をまず取ることで、国民の理解を得ることができるとみていた。

 この構想は1933年4月に市民保全部隊(CCC)という形で実現した。森林管理、土壌保全、治水事業などを実施し、失業者に職を与えることで、「精神的・道徳的な安定」を与えることを目的とした。

 最初のCCCのメンバーは18歳から25歳の男性が「部隊」として組織され、軍隊的な規律のもとで仕事に従事した。任期は6ヶ月から最長2年だった。女性参加は認められず、黒人はほとんどが人種隔離された舞台に入れられた。参加者における黒人の比率は10%ほどでほぼ人口比に相当した。しかし実際には白人よりも黒人の方が失業が深刻であり、生活が困窮しているものの割合がはるかに高かったため、そうした実情を考慮すると黒人部隊は少なかったと言わざるを得ない。

 CCCの日給は1ドルで、月に25ドルは仕送りしなくてはならないと定められていた。この点について、CCCは「ファシズム、ヒトラー主義、ソビエト主義の匂いがする」と酷評された。

 しかし実際にCCCが派遣された地域は治安がよくなり、商店も繁盛して景気が上向いたと言われている。多くの地域でCCCの若者は歓迎され、地元に溶け込んだ。

 1933年5月に連邦緊急救済法を成立させ、連邦緊急救済局(FERA)の主導のもとで失業者に職を与えた。連邦政府が州へ補助金を交付することによって、隔週に作られたFERAの下部組織が失業者に雇用を提供する形をとった。ルーズベルトはニューヨーク州でのTERAの経験をすぐFERAに活かすことができると見込んでいたのだが現実はそれほど甘くなかった。保守層がFERAに敵対的な態度を取り、業務を妨害していた州や地域もあった。特に南部ではFERAを通じて黒人に雇用が与えられると、白人の地主の下で小作農として働く黒人が減ることが懸念された。

 FERAによって失業者に与えられた仕事は、公共事業によるものが大半を占めた。それでも上下水道の敷設、刻教の建物の建設や修理、国立公園の建設や整備などの肉体労働が最も多く、事務職や専門的な仕事は少なかった。

 またFERAでは扶養家族を持つ男性への雇用の提供が優先された。女性の仕事は非常に限定的で、衣類・理念などを縫製し、貧困家庭に配布する作業が中心だった。それも夫が病気や障害を持っているために働くことができず、子供を抱えて経済的に困窮している家庭の妻が優先され、独身女性や夕食の夫がいる女性がFERAで仕事を見つけるのは難しかった。

 ルーズベルトは1933年の11月に冬場の困窮を乗り越えるために、大統領令を出して民間労働局(CWA)を設立した。CWAはFERAを通じた雇用の提供が間に合わない地域を支援するための一時的な組織として作られ、当初4億ドルの予算が当てられた。CWAは翌年の3月まで続き、400万人に仕事を与えた。予算は最終的に10億ドルまで増やされ、その80%が直接、賃金として労働者に支払われ、景気回復に向けた呼び水の枠割りを果たした。

 100日議会が終了した時点では経済状況は景気回復の手応えはまだ感じられなかった。しかしルーズベルトに対する国民の指示は、1934年11月に行われた中間選挙の結果に如実に現れていた。この選挙で、民主党は勝利し、州知事選挙でも民主党が圧勝した。こうした結果を受けて、ジャーナリストのホワイトはルーズベルトは「国民から王冠を授けられた」と論じた。

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