その瞳には迷いが映らない

中学生は受験まっただなかのようで。通勤電車内で、彼らのすがたを見ることがふえた。揃いの靴揃いの鞄。高校の母校はわたしが卒業してからすこし様変わりしたらしいが(指定鞄が廃止され、黒タイツが可となった。わたしが通っていたときはタイツがだめだった)、中学は十年前とまったくかわらない。

わたしはタイムマシンがあったら未来に行く派である。過去に執着はない。いまのほうがずっと良いと思う。内面も外見も、自分の好きなかたちをしている。

観劇の感想を手紙で送りたくて、如恵留くんの姿や声やせりふを反芻している。あの曲良かった、とそこかしこで思ったけれど曲名がわからないし、SHOCKを観るのも初めてだったので、完成されたエンターテイメントの洪水に流されているうちに時が過ぎていった感じだった。

だから、ここがよかった、とうまく文章に出来るかわからないけど、巧拙は問題じゃないと思う。いまのわたしが観て感じたことを、いまのわたしが書くことに意味がある。すくなくとも、わたしにとっては。

観たら、絶対もう一回観たいと思うと思ったから、行く前にジャニーズジュニア情報局で特別登録をしたんだけど、あたったらいいなあ。あたったら行きます。

そしてわたしの人生で、あんなに近くで光一さんを見られる(あえてこう書く)ことは、きっともうないような気がする。凄かったなあ。めちゃくちゃ近かったなあ。二十秒くらいやったけども。

SHOCKのステフォ(ステージフォト。実際に演じてる時の写真)は、私が行ったときは第三弾まで出てて(第四弾まである)、如恵留くんのそれは計五枚あったんですが、見本見てすぐ全部買った。顔が天才。いや、何もかも天才だけど。欠点すら好もしいものなの。彼にガッカリさせられることすら(稀にある)、わたしには貴重で、手にしたいものだ。そのほんの僅かな失望や、それに伴うかすかな痛みも。

江國香織さんの『がらくた』の中で、主人公の柊子は「人は人を所有できない。もししようと思うなら、気に入らないことどももすべてひっくるめて所有するしかない(※細かいところは違う)」と言う。
そのとおりだ、と思った。柊子がそう思うのは、独占欲が強く嫉妬深いからだろう。わたしもそうだから、よくわかる。そこまでたどり着いてしまうことの意味が。

そう得心がいってから、そこまで惚れられた相手が、わたしの現実にはまだ現れていない。夢には、現れた。それが、つかだと如恵留くんだ。わたしはこの二人から与えられるものはぜんぶ享受する。精神的に信奉者なんだろう。でもそれを、現実の彼らに押し付けることはしない。わたしが惚れているのは、わたしのなかにいる理想化された、神たる彼らだから。そこは混同できない。

ともかくその五枚はあまりにも素敵すぎて、買ってしばらく体温が高いままだった。良さをひとりで抱えきれなくて友人にラインをしたくらい。

ふつうのジャニショで買う写真(L判)の2.5倍くらいの大きさなので、壁に貼ろうと思ってます。マステで。ベッド脇に。そろそろ模様替えしようと思っていたところだったから。

そういえば今日、持っているギターのネックがまっぷたつに折れる夢を見ました。凶兆?吉兆?あとでしらべます。

#日記 #エッセイ #ジャニオタ

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