あきらめいいのがカッコいいなんて思わないで

紋黄蝶が目の前にひらひら舞う。すばらしい春の陽気。普段出歩かない時間に歩くと、気温のちがいに驚く。きのうはsurfaceの『なあなあ』が帰り道にとつぜん聴きたくなった。きょうも引き続き聴く。一番の、「"アタシ椎名くんでも良いんだよ”なんて オイオイ僕の意思はどうなっちゃうんだい?」っていう歌詞がほんと大好き。椎名さんのこういうところが好き。

それにしてもこの曲のイントロのギターのフレーズ(「椎名くん!始まってますよ!」「ベイベー!」のあとに流れるやつ)は90年代のB'zを彷彿とさせるな。でもそれはB'zのまねというよりは、きっとあの時代のバンドマンの必修科目である洋楽のなかにある、有名なフレーズなんだろうなと思う。ちょっとダサい歌詞とかも、B'zと通底するところがあって、だからsurface好きなんだ。

春は出会いの季節であり、恋が芽吹くときでもあると思う。かつてはわたしにも、そういうときがあった。でもいまの、ことし27になるわたしは、恋愛に対してうっすらと嫌悪感がある。もっと詳しくいうと、恋愛として好きではない相手から、恋愛感情や性欲を抱かれることに対する薄い嫌悪がある。わたしの恋愛対象が男性であるために、恋愛への嫌悪は男性に対する嫌悪へ畢竟、移りゆく。

こないだ、とある女性と恋愛話をしていた。そのひとは恋人とは別に、何人か会っている男の人がいるそうだ。その男の人たちのどこが好きなんですか、と聞くと、「ちゃんと女性扱いしてくれるところ」とそのひとはこたえた。新鮮だった。わたしは恋人に対しても、女性扱いされたいという気持ちがないので。

女扱いされることは、わたしにとってずっと居心地が悪いことだった。「女の子なんだから」と言われると、すこし嬉しいのと同時に、気持ちが悪かった。子供のころのわたしがサンリオやスカートやお姫様や王子様を蛇蝎のように嫌っていたのは、「女の子らしい」と周りに思われることに対する嫌悪感が根っこにあったように思う。

でも、恋愛をすることはものすごく好きだった。わたしの小中学校生活への気力は、恋愛に対する意欲によって支えられていたと思う。なぜこうまで今と差があるのかと考えるに、子供の頃の恋愛は、完全に一方通行だったからだと思う。要するに、わたしが好きになる子は、わたしのことを好きにならなかった。だから、好き勝手に想いを膨らませることができた。推しに対する、いまのわたしの態度とおなじだ。

いまのわたしは、わたしを女としてではなく、人間として扱ってほしいと男のひとに思ってしまう。なるべく性差を感じさせず、フラットに接してほしい。家族とか、仲の良い友達に接するのと似た感じで。ひとことでいうと、のび太とドラえもんみたいな関係(©️アルテイシアさん)が理想。

わたしの好きなものを貶さず、わたしの価値観を否定せず、「そういうひともおるよね」と流してくれるひとが、わたしは好きだ。
わたしは共感してもらえなくても生きていけるが、理解がないと生きていけない。同じ空間で生活していくならとくに。
同じものを好きになってくれなくてもいい。わたしが大切だと思っているものを、「このひとはそれが大事なんだな」と頭でわかってくれるだけで充分だ。

きっと、そういうひとはたくさんいるのだろう。ただそういうのはだいぶ仲良くなるまで見抜けないから、むずかしい。顔が好きとか、よく笑うとか、そういうことが基準なら百倍わかりやすいのに!中身に主眼を置いちゃったから、しゃーないですね。出会えたときにちゃんと気づけるように、ひねずに、素直に、こせこせせずに、感覚をひらいて、生きていようと思う。

#日記 #エッセイ

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