ウズベキスタン滞在記 その5 サマルカンド 12月16日

画像1 次の日、早起きしてタシュケント中央駅に向かうことに。朝ご飯もかき込むように食べて、タクシーに乗る。タクシーの運転手さんにはロシア人や韓国人の方もいる。ウズベキスタンの人はロシア語も流暢に喋れる人が多いので、運転手さんとロシア語でアザムは会話していた。ウズベキク語はトルコ系言語らしく、トルコ系国家の人の言語はだいたい分かるとアザムさんは言う。ちなみに近隣諸国で言うと、トルクメニスタン、タジキスタン、カザフスタンアフガニスタンとウズベキスタンはだいたい文化が近いが、キルギスだけ若干違うらしい。
画像2 イラン系だからであろうか?このあたりは日本人にはわかり難いところだ。ちなみに、アザムはハンガリーもトルコ系国家の仲間だという。歴史的に言うとアジア系のマジャール人ってトルコ系だったのか。さて、タシュケント中央駅から、サマルカンド駅まで、やはり列車で2時間くらいだった。位置的には南西に下った感じ。駅からタクシーに乗ると知り合いの家に寄ると言う。なんでも、ナマンガン出身の奥様の家族と仲の良かったご家族が、現在はサマルカンドに住んでいるらしい。タクシーを降りると大きな邸宅だ。呼び鈴を鳴らすとご主人が出て来た。
画像3 ご主人はRakhimov Shavkatさんといい、自宅の一室と地下をウズベキスタン、サマルカンドの古美術の博物館にしており、その筋では有名な方らしい。サマルカンドだけでなく、あちこちに拠点を持っているらしい。さらには歌や踊りを行う劇団?もプロデュースしており、機会があれば、このようなウズベキスタンの美術や音楽などを日本で展示、公演したい、というお話でした。私はウズベキスタンの美術には門外漢なのだが、早速、自宅兼博物館を見せてもらった。スザニというのだろうか、大変貴重な刺繍が施された布を見せていただく。
画像4 その他、甕やさまざまな古美術を見せてもらう。門外漢ゆえその価値を伝えることができないのがもどかしい。さて、ここでも美味しい煮込みご飯?の朝ごはんをいただくと、30歳くらいだろうか、息子さんのRavshanさん(三人のお子さんがいらっしゃるとか)が中心部まで車で送ってくれてサマルカンドを案内してくれると言う。実にありがたい。三人でまず向かったのは、ティムール一族が眠るアミール・ティムール廟である。ティムールは、アレキサンダー大王にも比せられる、歴史上の偉人で、一族の廟はその青い色が美しい雄大な建造物である。
画像5 アザムがこの廟の外観を色々と教えてくれる。デザインのように見えてコーランの引用がアラビア文字で書かれたり、アラーやムハンマドの名前が書かれているという。知らなかった。まるで現代アートのようなデザインのようにも感じられる。そして何よりその青色が美しい。この日は曇りがちだったが、晴天だったら尚更美しいだろう。私が何よりウズベキスタンに最初に惹かれたのも、トルコの友人で詩人・アーティストのニハット(Nihat Ozdal)のサマルカンドでのインスタグラムを見てからだと思う。
画像6 ニハットとは、日本詩人とトルコ詩人との連詩プロジェクトで知り合ったのだが、(トルコの詩人ゴクチェナールと日本の詩人四元康祐さんの企画、詳しくは『ハルフェティ連詩」の記事を参照)なんと、ニハットとアザムは共通の友人だったのだ。アザムが企画した、数年前のウズベキスタンのwriter-in-residenceに参加していたのだ。なんたる奇遇!ちなみに、私がウズベキスタンに到着してから、ニハットに、「今、ウズベキスタンにアザムといるよ!」と報告したら、とても喜んでくれた。彼はその時、なんとパナマ!に居た。
画像7 相変わらず、世界を股にかけて活躍中である。話が脱線した。さて、あこがれていたこの美しいティムール廟にようやくこれたことに感動しながら中に入ってみる。中も金色に煌めき装飾に圧倒される。お墓といえばお墓なのだがなんともきらびやかである。真ん中にティムールの棺と一族の棺が置いてある。ティムールの棺だけ、黒緑色の軟玉で造られているという。実に渋い色だ。アザムによると、ティムールの骨が発掘調査時に盗まれたため、祟りにより第二次大戦が始まり、骨が返されると戦争が終わった、という伝説があるらしい。
画像8 天文学者としても有名な孫のウルグベクもここに眠っている。ラブシャンさんも時々、アザムの耳にウズベク語で何かを囁き、それをアザムが英語に訳して私に伝えてくれる。ダブルで解説してくれるのでなんとも有難い。青の都とも言われるサマルカンドは「チンギス・ハーンが破壊し、ティムールが建設した」とも言われるが、このティムール廟は一際、外は青色が映え、中は黄金に輝いている。そしてティムールの棺の黒緑色の見事さ。アラーやムハンマドの名前やコーランが書かれた装飾デザインの数々。うーむ、はるばる日本から来て良かった。
画像9 (ちなみにサマルカンドを訪れる前に、憧れのサマルカンドについて、詩と俳句をフランス語で書いたことがある。読みたい方は同じくnoteの記事で参照出来ます、笑)ティムール廟を後にすると、ラブシャンさんの車で、レギスタン広場に移動。こここそが、サマルカンドの観光の目玉であろう。ウルグベク・メドレセ、ティラカリ・メドレセ、シェルドル・メドレセの三つのメドレセが密集している広場だ。メドレセとは神学校と訳すべきか。ティムール時代の大学とも言える。ティラカリ・メドレセが時代的には一番新しいらしい。
画像10 私のようなイスラム教に詳しくない者にとって、建物の上部が丸いとなんでもモスクに思えてしまっていたが、違うんですな。先述した、ウルグベクの名前がついた、ウルグベク・メドレセは一番歴史が古く1420年に造られ、ウルグベク自身も教鞭を取ったらしい。学生の寄宿舎もある。(今は土産屋さんとかが入っている。)ティラカリ・メドレセは、1660年に建てられた。ティラカリとは金箔を意味するらしい。後述するビビハニム・モスクが廃れたあと、サマルカンドのメインの礼拝所となったそうな。中に入ると感動的な美しさ。
画像11 アザムによると、メッカの方向を示すミフラーブという壁の窪みもある。装飾が金に輝いて美しい。深みがあるように見える礼拝所の天井も実は平らなんだよ、と教えてくれる。この天井は日本のイスラム関係の本の表紙にも使われていたような気がする。井筒俊彦の文庫本だったかな?シェルドル・メドレセには入らなかったのだが、(ラブシャンさんいはく、土産屋ばかりで面白くないとのこと?)ガイドブックにもある、例の人面とライオンのタイル装飾は確認。いやはや、しかし、青い都のシンボルの3つのメドレセを満喫した。
画像12 宇宙の神秘に触れているようにも感じたメドレセ群をあとにして、次は中央アジア最大級のモスクともいわれるビビハニム・モスクへ。このモスクの雄大さと尊厳に圧倒される。このモスクの由来や伝説は面白いので、みなさん、また色々と調べてみてください。ちなみにビビハニムとは、ティムールの妻の名である。近くにビビハニム廟もある。この中で、恒例の、詩の朗読を行う。トルコや、ルーマニアでもそうだったが、詩人たちはどこでもゲリラ的に詩の朗読を行う。周りに人がいようと気にしない。最初はなんだか小っ恥ずかしいかったが、これも慣れる。
画像13 このモスクを散策している時に、アザムに、コーランをどれくらい暗記してるのか聞いてみた。すると1割くらいは覚えているらしい。凄い。帰国したら、買ってから随分時間が経つが、まだ未読の井筒俊彦訳の岩波文庫のコーランを読んでみよう。(じつはアザムの三男坊にも、ぜひコーランを読め、と勧められたのだ。)そう言えば、アザムの自宅で、朝早くトイレに置きたとき、真っ暗な部屋のなかでアザムが熱心にお祈りしている場面に出くわし、はっとして、その雰囲気に圧倒されて、「おはよう」とも声をかけられなかったことを思い出す。
画像14 トルコ、ルーマニア、ウズベキスタン、どの国を旅しても、その地域地域には宗教が豊かに根づいていた。日本、特に都市に住んでいるとなかなか気づきにくいが、宗教を持たない大部分の日本人のあり方の方が、実は世界的に見てレアなのだ。旅をするとそんな感慨を抱く。さて、ビビハニム廟のビビハニムの棺も見せていただく。一族の棺だろうか、近くには何体かの棺があり、その上には寄付金だろうか、紙幣が載っている。アザムと二人でしばらく、ビビハニムの緑の棺の前で、だまったままベンチに座って、各々のもの思いに耽る。
画像15 ビビハニム廟を後にすると、歩いて近くのハズラティ・ヒズル・モスクに向かう。アラブの侵入後、8世紀初めに建てられた最初のモスクだという。(現在のモスクは19世紀に再建されたもの)テラスから、街並みとバザール(市場)が一望できる。ちなみに、ウズベキスタン独立後の最初の大統領、カリモフ大統領もこの近くに埋葬されているらしい。独裁者としても有名である。なぜアジアに独裁者や専制政治が生まれやすいのか。私は、経済的な理由というより、アジアの文化や習慣などがそれを産む土壌になるのではないか、と睨んでいる。
画像16 フランスの歴史人口学者のエマニュエル・トッドは、家族累型(たとえば、日本の直系家族制)や、識字率、出産率などが社会の近代化などに及ぼす影響を指摘したが、ユーラシア中央部に生まれのは父系共同体家族制らしい。アザムと喋っていて面白かったのは、両親のもとに残るのは、日本のように長男ではなく末息子らしい。(女性が末っ子だった場合や、財産の相続などのことは聞かなかったのであるが)話が、またまた脱線した。シャーヒズィンダ廟群(生ける王という意味の廟群で、ティムールゆかりの人々の廟群らしい。)も訪れる。
画像17 この日の観光の締めは、ウルグベク天文台跡である。ティムールの孫で統治者であったウルグベクは優れた天文学者でもあったが、その天文台の一部が現在でも残っている。この滑り台のような形のもので、どうやって天体観測するの?と思ったが、この天文台跡に隣接する博物館を訪れれば、その疑問は氷解する。なるほどなあ。ちなみにウルグベクはその観測をもとに、恒星時一年間を現在の観測とほぼ変わらない精密さで計測したのである。ある意味、それはヨーロッパの当時の科学さえも上回る成果であったであろう。
画像18 さて、夜ご飯タイムである。ラブシャンさんに、サマルカンドのアミューズメントパーク?みたいなところに連れて行っていただき、高級ケバブ料理をご馳走になった。ラブシャンさん、ありがとうございます。お腹もいっぱいあるになり、ラブシャンさんの車で、父上のRakhimovさんの第二邸宅に案内される。(いくつ家持ってるの?笑)めちゃくちゃでかい宮殿のような邸宅だ。私はすっかり眠くなり、積もる話があるであろう、アザムさんと美術商親子を残して一足早く眠らせていただくことにした。実に盛りだくさんで充実した一日であった。
画像19 一首 ティムールの棺の色の渋かりきティムール指示かは我は知らねど

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