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中二病という理由

詩は難しい。


いくら読んでも眺めても、つまんでひっくり返してみても、てんで意味がわからない。


でもそれでいい。


眼前に確かに存在しているものの意味するところが皆目不明であるということは、非常に不愉快な状態である。

己が馬鹿で阿呆で無知蒙昧であることが、間抜けにも衆目にさらされているような心持ちになってきて、まさに耐えがたい。

誰にでもばれたくないことはあるのだ。


ただ読むうえで(生きるうえでも)大切なのは、わからないということ自体であると思う。わからないということを自覚している状態、といったほうがいいかもしれない。

耐えがたいが、耐えるしかないのだ。


なぜなら生きることや暮らし、人間そのもの、社会が、この世が、そうだからだ。

わからないことだらけ、どだいわからないことが土台になっていてその上にさらにわからないことが積み重なって構成されているのが人間であり、社会である。


不明を不明のまま、わかったふりをしないことが、人が己や他者、社会に向き合ううえで賢明な態度なのではないだろうか。


詩は人間を、社会をうつしだすものだから、より素直に(厳密に?)書こうとすればするほど不明の度合いが増すのかもしれない。


どだい不明なのだから、解釈は多様どころか無限である。読み手との共同作用でイメージの無限の広がりを生む、言葉の力を無限に発揮する可能性を秘めているのが詩なのだろうとも思う。


読む側は多様な解釈を許容する表現に甘えて勝手な解釈を重ねることができるわけだが、これはあくまで読み手の内側から広がる解釈にすぎないのであって、書き手の意図や内面を理解する行為ではない(一部通じてはいるが、そのものではない)ということだ。


だから解釈によって書き手のことを理解した気になるのは錯覚だし、書き手にとっても読んだ人が理解してくれることを期待するのは危険なこと(じぶんの創作にとっても、生にとっても)であると思う。


したがって、わたしが毎年選考直後に書いている距離感のバグったべたべたな講評は、もれなく理解からはほど遠いものであるし、手前勝手な解釈の一片でしかない。すなわち中二病であるということだ。

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