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自分が憧れるような自分になるタイミング

教育実習に行ったことがある。

「母校に教育実習に行く」ということを1つの理想として地元を離れて県外の教育学部に進んだのだが、入学してから「教育実習は附属小学校もしくは地域の学校に行く」システムだということを知り、母校に行くことは叶わなかった。

自分の詰めの甘さにガッカリしたのだが、まあでも実習自体は良い思い出となった。

同時に、教育実習を通して「学校の先生にはならない」という決意が決まった。

学校の先生として働く諸先輩方の姿を同じ方向から見て、憧れをもつことができなかったのだ。

激務だと感じた。

そして、その激務に見合わない給料だと感じた。

20歳の僕は「パッとクラウンが買えるくらいのリッチさ」を夢見ていたので、これじゃあ無理だ、と思ってしまったのだ。

今考えると軽率に感じるが、アルバイト以外で社会人という世界に触れてみると、学校の先生という立場で感じた窮屈さに対する「ご褒美」が少なすぎた。

髪型を強制されたのも大きい。

やっぱりそうか、とも思ってしまった。

この辺りから、少年心に抱いていた「自分で何かする」という将来の展望が固まってきた。

教育実習の話を思い出したのは、昨晩その夢を見たからだ。教育実習の最中に同じ実習生同士で飲み会をする夢。

同じ実習生、飲み会をしていた居酒屋に居合わせたお客さん、仲間内で話に上がった教員…たくさんの大人が登場した。全員、苦手な大人だった。

35歳にもなって「大人」なんて言葉を使うことには違和感があるが、夢に登場したその人達は誰も憧れの対象にはならなかった。

そんな人達しかイメージできない自分が悪い。

嫌悪感で目覚めた朝だった。

自分で何かやるってことは、自分で何をやるか選べるということだ。つまり、どんな人と付き合っていくかも自分で選べる。

あのとき感じた窮屈さの原因は、あのとき周りにいた人にあると信じている。

やっぱり、どこまでいっても人なのだ。

何を食べるかじゃなく、誰と食べるか。

これもまた的を射ている。

環境は人が作っているから、環境を変えたければ周りの人を変えるしかない。賛成だ。

周りの人を変えるのは大きなエネルギーが要る。感情が乗るから。感情を読み取ってしまうから。でもやっぱり、そのエネルギーはかける必要がある。

晴れて自営業になった今、誰とやるかを選べるようになった。エネルギーをかけて良かったじゃん。次は自分が変化するタイミングだ。その繰り返しだ。

自分が憧れるような自分になるタイミングだ。

2024/06/15

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