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仲良しではない母の63回目の誕生日

もうすぐ母の誕生日だ。
昭和33年生まれで、おそらく63歳になるはずだ。
孫は4人。
兄のところに、10歳と7歳。
私のところに、4歳と2歳。
偶然にも、どちらも上が女の子で下が男の子だ。

母は、小学校から女手ひとつで私と兄を育ててくれた。
とても厳しい人で、今でも「怖い」という感情は消えない。性格的にも全然合わないし、クラスにいたら絶対に友達にならないタイプだ。
覚えているのは、小学校4年生のとき、テストで80点をとった。
でも、食後に待ち構えていたのは、反省の時間だった。
向かい合って座り、テストを広げて、母が指をさす。
「どうして、ここ、間違えたの?」
怖かった。1問も間違えるのは許されないのか。
いろいろ口うるさい割に、土日の部活の試合の日は母が寝坊して、いつも遅刻して試合会場に到着していた。今なら、疲れて起きられなかったんだよねって思うけど、あの時は恥ずかしくて仕方なかった。

そんな母に反抗するよう、兄はどんどんやんちゃになっていった。
兄を反面教師にして、私は勉強をがんばった。いい子を演じた。
それで、疲れてしまって、高2のときに爆発した。でも、その爆発も軽いポンッという小さなもので、勉強を頑張らなくなったり、部活よりも恋愛に生きるというものだった。結局ビビりなのだ。すべて離れて見捨てることはできなかった。でも、20歳を過ぎても門限があったり、何かと干渉してくる母が嫌で嫌でたまらなかった。

でも、今は感謝してる。
35歳からシングルマザーで子ども2人抱えて仕事を頑張ってくれた。養育費があるとはいえ、ずっと仕事を頑張ってくれていた。小学校低学年のときは、家にいた方が良いと考えて赤ペン先生をしていたり、資格があった方が良いと考えてワープロ講座を受けていたり。小学校高学年になると、コンビニをどこに出店したら良いかの調査をする仕事で、県外のコンビニを回った。必ずお菓子を買って帰ってくるのが、子どもながらに嬉しくて仕方なかった。
父がいた頃は、車でディズニーランドに連れてってくれた。シングルマザーになってからは、私が高校生のときに連れてってくれた。3人でプリクラも撮った。生活をしながら、旅行代金を貯めるのも容易ではなかったと思うが、母は生活する上で何も不便を感じさせないようにしてくれた。

友達の話や恋人のこと、あまりたくさん話はしなかったけど、母のことは大切だ。私の理解者とは決して言えないし、母が好きかと聞かれたら正直分からない。きっとこの世からいなくなったら、どこかほっとするのだと思う。

今、母は仕事をしていない。
祖父の所有している不動産管理のお手伝いをしているらしいが、毎日のほほんと暮らしている。水曜日と木曜日は、子ども達のお迎えをお願いしている。実家から徒歩3分の保育所にお迎えにいってくれる。18時に私が行くまで、孫との時間を楽しんでいるようだ。望んでいたかは分からないが、週2日、生活にハリが出ているのではないかと考えている。最低でも週2日顔を合わせるお陰で、iPhoneの使い方とか美味しい物の話ができる。

私の息子は、母とたくさんの時間を過ごした。
熱出したときは母に預け、私は仕事をした。仕事をやめたということもあるが、私も住宅ローンを抱え、稼がなくてはいけなかったのだ。
母も「一番手をかけた孫だね~」と、にこにこしながら言っている。

もうすぐ5歳の陽気な娘と、THEやんちゃとなっている2歳の息子が、変なことをしたり言ったりするとケラケラ笑ってる。私は、あんな風に母と笑いあったことは記憶に残っていない。子ども達を通して、今、生きるのに必死だったあの頃の般若のような母が少しずつ消えていっている。
今なら分かる。
母となった今なら、たくさん泣いたんだろうなって。

兄は県外に住んでいる。やんちゃだったのに、今は星野リゾートで働いている。私も、コロナの影響を受けずに毎日働けている。心配をかけていないと思うが、親孝行になっているだろうか。母がしてくれた事に返せるだろうか。

曾祖父と曾祖母を連れてコストコに行くのが面倒で、「もうっ、2人で行けばいいのに」という無茶苦茶な事を言う母。「いやいや、87歳と86歳でコストコはきついでしょ」となだめるが、もしかしたら未来は私が言っているかもしれないなぁと、母の愚痴を受け止めてあげる。

誕生日は雨模様らしいから、お彼岸のお参りは中止して、子ども達とケーキを作ろうと思う。いい誕生日にしたいなぁ。

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