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捨てられない手紙


私には、捨てられない手紙がある。

大学時代に、好きだった人からもらった手紙だ。
大好きで、大好きで、彼は私の“絶対”だった。


特別にハンサムじゃない、基本トラッドな服装なのに、なぜかどこかオヤジッぽくて、「◯◯しなさいよ」なんて、お前は私の母親か、みたいな口調で話し、屁理屈屋で、頑固で、据え膳は食わない、誠実で優しくて残酷な人だった。

飴の中では『抹茶ミルク』が一番好きなのと同じように、理屈抜きで彼のことが好きだった。
そういう意味で、私にとって彼は“絶対”だった。

中〜高校時代に好きだった、ガキ大将タイプ、人気者タイプのお調子者の男の子たちとは、全然違うのに、だからこそ、強く惹かれたのかもしれない。
彼は、瀬戸内の田舎町で育った私が出会うことがないような類の人種の一人だった。


東京の大学に入り、マイナーな言語であるという理由だけで、私はロシア語を第二外国語として専攻した。
あの頃の私にとっては、マイナーなこと自体が、憧れだった。
そして、やっぱりロシア語を専攻した彼と同じクラスになった。

大学のラウンジというだだっ広い、空港の待合室のソファにテーブルを無造作に置いただけのような部屋の片隅に、私たちのクラスの溜まり場はあった。
家に帰っても一人ぼっちで話し相手のいない地方出身者たちは、よくそこにたむろした。
どうやって話すようになったのかはよく覚えてないけれど、私も彼もそこでたむろするうちに仲良くなったのだと思う。
彼と私のアパートが、同じ駅にあったことも原因しているかもしれない。
線路を挟んで、北と南ではあったけれど。
通う最寄りの銭湯も違っていたけれど。

大学に入ったその春、私は彼に恋をした。

そして、ちょっとだけ仲良くなってから、私は知った。
彼には、故郷に、高校時代から付き合っている彼女がいることを。
だから、彼と私はただの仲のいい友人だった。
でも、彼は、私が勘違いするのに十分すぎるぐらい優しかった。
そして、仲間中が気づいていた、私の彼への気持ちを、彼だけが知らないはずがなかった。


夏休みに入って、大学の近くのマクドで、彼と二人、安くて薄いコーヒーを飲んでから、私は東京駅へ向かった。
コーヒーをブラックで飲むようになったのは、彼と出会ってからだった。
セブンスターを吸うようになったのは、彼に彼女がいると知ってからだった。

初めての夏休み、私は広島に帰省した。
彼も北海道に帰省した。

実家での禁煙は辛かった。

そんなとき、彼からの手紙が届いた。

鉛筆で書かれた手紙。
きっとその手紙を書いている間だけは、私のことを想ってくれていたのじゃないかと、そんな風に思える手紙だった。
自分勝手な私はそれを恋文だと解釈した。解釈したかっただけなのかもしれないけれど。


その秋、彼女の前で、私は見事に撃沈した。

それでも私はその手紙を捨てることができなかった。
たとえ一瞬だとしても、私のことをほんの少しは想ってくれたであろう、その気持ちが込めらた手紙を後生大事にしまいこむことで、私は、心のバランスをとろうとした。

その手紙は、『頑張んなさいよ。ちゃんと見てるから』と私に語りかけてくれた。

メールやラインがない時代でよかった。
あの頃は、電話や手紙しかコミュニケーションの手段がなかった。
そして、貧乏下宿生の部屋には電話さえ引かれていなかった。
でも、そんな時代のおかげで、私は、彼の鉛筆で書いた弱い筆圧の直筆の文字をこうして目にすることができる。とても、幸せな時代だったのかもしれない。

私は、人生の辛い時や、落ち込んだ時に、何度かその手紙を読み返し、その度に彼の優しい言葉に救われた。
今もこの手紙を私が大事に持っているなんて知ったら、驚くだろうか。
驚かれるくらいならいいけど、気持ち悪がられたり、怖がられたりするかもしれない(笑)。


30年も昔の手紙のことを、なぜ、急に書いてみようと思ったのか。

それは、いろんなことが、私の中でやっと時効になったからかもしれない。
50歳という人生の節目で、いろんなことを再びセンチメンタルに考え始める年頃だからなのかもしれない。
20数年ぶりに再会して(2人きりではなかったけれど)、ちゃんと彼と普通に話ができたからかもしれない。

あの頃のような切羽詰まった自分を追い詰めるような熱さはないけれど、あの頃、聞き慣れた声で彼が話すのを聞けたあの時間は、ほんのりとあたたかい時間だった。

そういう変化が実感できるのが、歳をとるということなのかもしれない。


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