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孫子の兵法的に表現すると、中国は戦わずして日本に勝ち、日本は戦わずして中国に負けたのでしょうか。

「孫子」本編の前に訳注の方の「解説」があります。そこに次のような一文がありました。

個別的な戦争技術としての価値もさることながら、それを超え出て、さらに日常処世のうえから人生の在り方の問題にまでわたって深刻な思索を誘うものが、そこにはある。それは、単なる古い兵書としての歴史的な価値に止まるものでなく、さらに時代や地域の限界をも乗り越えてわれわれに訴えるような広い普遍性を備えているとみられるのである。

「孫子」金谷 治 訳注、岩波文庫、p.10

この本を読み始めた時、本編に入る前の解説のこの部分に気持ちが引っかかってしまったようで、読書ノートに次のように書いてありました。

本当に『地域の限界をも乗り越えてわれわれに訴えるような広い普遍性を備えている』か? 中国限定ではないか? もう少し譲ったとして、戦国時代から『孫子の兵法』を勉強して取り入れてきた日本だけに『狭い普遍性』が見られるだけではないか? いくらなんでもイギリス人やインド人には通用しないだろう。

読書ノートにはこれだけしか書いてありませんでした。このときは、いったい何に引っかかったのか、自分でも明確ではなかったのですね。

しかし、「孫子」を読み終え、さらにそれから数年、「中国という国」を、直接ではなく報道を介してだけだけど、見てきた今は何に引っかかったのか分かりました。

2つあります。

一つは嫌悪感です。
「戦争技術を超えて日常処世や人生の問題にまで思索を誘う」というところです。兵法という、結局は戦争のためのえげつない思索を日常処世にしたりする人と友達になるのは嫌だし、仕事でも、何をされるか分かったものではないので、そういう人と仕事の取引は出来ません。そういう人達が構成しているような社会はまっぴらごめん、なのです。

二つ目に引っかかったのは、民族の文化や伝統を無視していることです。
戦争での戦い方は、それぞれの民族の原始的な文化や伝統、むしろDNAとでも言った方が適切かもしれないベースがあるように思います。孫子の兵法が通用するのは中国の文化と伝統の域内限定であり、地域の限界は超えないと思いたい。だけど、イギリス人やインド人に通用するかどうかは分かりませんが、残念ながら日本人には通用しているような、昨今の状況です。

例えば、最近ニュースにもなった「反スパイ法の改正」。
孫子の最終章である第13篇は「用間篇(スパイ篇)」です。

中国は、自分達が行っているスパイ活動と同じことを他国も行っているに違いない。そう考えているように見えます。自分達が行っているのと同じスパイ活動を取り締まる基準が「反スパイ法」なんですね。
某製薬会社の日本人がスパイ活動をしたとして逮捕されたニュースを見た日本企業は、特に中国駐在員を家族に持つ人達は恐怖に慄いたことでしょう。あのニュースを見たときは、日本企業は中国での事業活動を縮小していくだろうと考えました。しかし、今のところ、某製薬会社も含めて、中国事業縮小や撤退の方向だという報道は見ません。

そもそも日本企業は、自分たちが中国を利用して儲けるために進出したはずです。それなのに、今は、社員逮捕の恐怖に怯えながら中国にとどまざるを得ない経済状況になっている。この先、もしも有事のような事態になったら、中国在住の日本人はどうなるか想像に難くありません。
経済的に首根っこを掴まれてしまっただけでなく、暴力的とも言える「力」の支配下におかれてしまったと言ったら言い過ぎでしょうか。中国は力によってやりたい放題に日本人を取り締まり、日本国内ではやりたい放題にスパイ活動をする。

孫子の兵法的に表現すれば、「中国は戦わずして日本に勝ち、日本は戦わずして中国に負け」、中国は力によって日本に対しやりたい放題、日本はやられ放題を我慢するのみ。

もはや、そういうことになってしまったのでしょうか。