不安を煽る人間が信用できない

新型コロナウイルスにより生活が変わってからまもなく1年半を迎えようとしている。未だに生活は変わらない。ただ昨年と違うのは、ワクチンはもう打てそう、というか打っている人は打っていることだ(自分の祖父母にも接種券は届きました)。

ただ、どうも世の中の反応だったりSNSの反応を見ると、そういう世間とか少し離れた温度を感じる。「日本は2度と戻れない」、そんな風に捉えられるようなものも目立つ。

実際、政治に対して思うところは色々あるだろう。自分は現政権は基本的には支持しているが、当然「もう少し早ければな」「もう少しこうすると良かったりするのかもな」と思ったりもする(そもそも海外でのロックダウンのような「できない」こともあるが)。

とはいえ、あまりにも最近の議論は浅はかというか、結論ありきのように感じる。結局偉い人叩いたら反論してこないし楽だから叩いているだけじゃん、と強く思う。そして、主語が大きかったり上の立場の人間を批判しているものの対象は、大抵もう少し下だったり規模の小さいところだったりもする。

例えばワクチンにしてもそう。「日本は遅い」と言うが、ではじゃあなぜ、と言った時に全てを現政府の責任にできるわけがないだろう。それまでの数十年間のワクチン開発の事情、世論、リスクを抑えることを望む国民性(これはメリットでもあるが)、要因は1つだけに限らない。ワクチンを3社と契約しているのも、ひとつはそのリスク分散というところもあるだろう。

そして「報道の自由」という言葉があるが、はっきり言って今のメディアは自由すぎる。もちろん伝えている部分もあるだろうが、不安を煽ってばかりでもっと社会的に伝えるべき情報を疎かにしているとしか自分は思えない。

結局、メディアは(全てではないが)「社会的責任の前に利益を考える企業」なんだな、とコロナ禍で少し思ってしまった。フェスを主催している、なんなら対策して今春も開催しようとしていた某テレビ局が別のフェスを批判しているんだから。そのニュースを見て自分は「結局は利益なんだな」と思った。もちろん利益を上げることは大事だが、社会的責任を果たしているのかと言われたら自分は「NO」と言う。

10年以上前には新型インフルエンザが流行した。その後には東日本大震災があった。その時と違うのはSNSが発達したことだ。情報が良くも悪くも溢れるようになったことはもちろん、自分たちが発信者になることに対する敷居も下がった世の中だ。

一方弊害として、不安を煽る人々は多くいる。ただその多くは、意図があるようにも思える。自分はそんな人間を信用できないし、自分の利益のことしか考えていないと思う。ある意味「洗脳」といってもいいだろう。こういう息が詰まるような世の中はそういう言葉に流されやすくなる。そういう時にそういう言葉が増えるということは、そういうことだろう。

人は強い言葉に流されやすいし、極端を求めたがるのかもしれない。ただそれでは「対立」を産むだけだ。コロナ禍から1年、SNSなどでも悪者を作りたがる論調が目立ってきた(路上飲みなどはさすがにコロナ以前の問題だとは思うが)。だが誰かを悪者にして解決するのは自分の心だけだ。

もちろん批判をするなとは言わない。それは違う話だ。ただもう少し前向きな話ができないのか。誰かを強い言葉で突き放すことは、本当にこの国を前に向かす行為なのだろうか。国の偉い人より、自分はそういう人の方が心配になってきている。


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