[雑感]往復書簡なるものに関して
インターネットの海に文章を書き落としては見失うので、これもまたそうなる気もしつつ気ままに書いておく。
『往復書簡 限界から始まる』を読み返して
最初に読んだのは2021年の夏で、鈴木涼美さんってこんな文章も書くのかと驚いた記憶がある。年上の女性との、それも愛の深い人との対話の中で、少しずつ正直な言葉がこぼれだしていくのが面白い。
それと同時にこんなにも大きな絶望を抱えていたことに驚き、悲しい気持ちにもなった。彼女の肩書きやテキストから私が感じとれていなかったもの。千鶴子先生(いや、千鶴子さん)は「ウィークネス・フォビア」だと指摘して、なんだか私まで肝が冷えた。
「男にたくさんの期待をし、たくさんのインベストメントをした」千鶴子さんと「そいつらに言っても無駄だよ」の涼美さんのやりとりは平行線をたどりそうなのだけど、そんなことはなくてそれがやはり往復書簡の効能だと感じる。
弁が立つ人ほど、その場で言われることには反射的に自分の意見をぶつけてしまうし、そのような議論も一定の意味を持つけれど、人生について考えるとき、もう少し長い軸で対話をしてみたくもなる。
目の前にその人がいない中で手紙を読み、その人がいない時間にお返事を書く。文字にするなかで思考が深まったり、混ざったり、合わさったり、譲り合っていったりする感じが心地良いと思った。
予定調和から逸脱したい?
手紙が読みたいなと、どんな話だったかも忘れていたけど家にあったこちらも読み返してみた。手紙とメールのやりとりで構成されるふたつのお話。もともとが舞台? 会話劇なのかな。
何事も予定調和でなくて良いのかもしれないね。極端なことを言えば私はこのテキストを「やっぱり手紙なんて嫌いだ。ここで終わります」と終わったって良い。ただ登場人物が支離滅裂なわけでもないので、安心して普段本を読まない人にも読んでみてほしい1冊です。文庫はないけど、電子でも良いかもしれない。
ちょうど先日インターネットの好きな人が1日店長をしているBarにて、その人を好きな人たちと車座でいろいろなことを話したのだけれど(名前も所属もよくわからないままに話し続けられて面白かった!)、そこで「最近の若者はキャラづけを異様に求められている説」という議題が浮上した。自分はもう若者ではないので、学生時代にタイムスリップして思案……。
家に帰ってから思い至ったのは、SNS時代以降、人間としての一貫性を“見せやすくなった”ということ。それによって演じなくてはならない部分が増えた可能性はあるのかな。小学校、中学校、新体操、高校、大学、バイト先、職場、家族、とすべての前で違う顔を持っている自覚があるので、一貫性を求められる時代の苦しさをあらためて感じる。いわゆる「分人」の話でもありますかね。
逸脱したいと強く願わずにいられるのは常々それなりに違う自分として振る舞うことが許容されているからかもしれない。その点も、東京っていいのかもね。
手紙を書こうかな
大人になってからの文通、少しだけしたことがある。思い出深いのは、徴兵で韓国に戻っていた先輩との文通。不定期で送られてくるお手紙が楽しみだった。雪山での訓練に関するお手紙が届くころにはこちらは少し暖かったりして、時間と空間が違っても通じ合えることを発見した。しかし、自分がもらった手紙のことは覚えていても相手に送ったお手紙がどんなものだったかは忘れてしまうな。そこが文通のはかなさか。手紙と実在の世界がまるでクロスしていないかのように振る舞うのも好みだったなと思う。
いちばん最近お手紙を書いたのは大好きな先輩が職場を辞めてしまうときかもしれない。あれから手紙を書いていないのかと思うと、そろそろ書いてみたくなるね。なお、あんなに泣いたのに先輩はおととし会社に戻ってきました。うれしいけどね(FIN)
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