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精霊の王 -プロローグ-
冒頭から非常に興味が湧く内容で、思わずほぼ全文を抜粋するようなカタチにってしまう。
ずっとそう思っていた。
ずっと私はそう考えていた。
自分の意と照合できる本と巡り逢えるようになってきたのだと思わざるを得ないです。
プロローグ
───石の神の周辺からは、現代の私たちには正しく理解することはおろか、想像することさえ困難な、異質な構造をした人間の活動からのぼる不思議なノイズがざわめいていた。
この感覚は、もう大人になってしまうと限られた人にしかそのニュアンスはわからなくなってしまうだろう。子供の頃は感じてはいるが、子供時代は自分にとっては身近で当たり前であるため、思慮深さがなければ、違いを感覚することはないだろう。
───それは神というよりはむしろ精霊と呼んだほうがよいような、とてつもない古さを秘めている。
かつて、その精霊は、この列島のいたるところに生息し、場所ごとに少しずつ違った呼び名で呼ばれた。シャクジ、ミシャグジ、シャクジン、シェクジン、シュクノカミ、ミクジノカミなど。
「サ行音+カ行音」の結合を見出すことができる。この形をした音の結合は極めて古い日本語でもものごとや世界の「境界」を意味するものだった。
この精霊は、古代の人々が空間の構造や事物の存在を認識するうえで、とても大きな働きをしていた。
言葉は物質である。言葉は想いや行為、行動と、他者や他を、言葉に閉じ込めて固定させてしまうのだ。
縄文時代は名詞や固有名詞がなかったと言われるのは、固定されなかったためだと感じた。言葉による境界を作るのではなく、音だけで境界を作っていたのでは。それにより、境界は薄く、時に強く、柔軟なものになる。アニミズムよりも動物寄り。
ジャクジは国家の管理する神々の体系に組み込まれたことがない。しかも古い神名帳に載せられている神々よりも古くから、この列島で活躍をしていた精霊なのである。
素性を辿ると縄文文化にまでさかのぼる古さを持ち、人間が超越的なものについて思考するようになってまだまもない頃からすでにその活動ははじまっていた。
その頃はまだ神社というものはなく、宗教の組織などもない世界で、この精霊は地球的規模の普遍性をそなえながら、人々の具体的な暮らしに深く浸透した活動をおこなっていた。
しかし、国家というものがこの列島に出現し、人々の思考がそれによって大きな変化をとげてしまうと、かつては列島上にみちあふれていたシャグジの精霊=神たちの、巨大な規模での没落がはじまった。
この精霊の祀られていた場所に神社が建つようになると、居場所を失ったこの「古層の神」たちは、神社の脇のささやかな祠や道ばたの粗末な祭場に放置されるようになってしまった。いや、それならばまだましなほうで、多くの場合そんな精霊の存在さえ記憶の大地に埋葬されてしまい、社会の表面からは消え去ってしまったように思われたのである。
ところが、社会の表舞台からは姿を消したかのように思われた、この縄文的な精霊であるシャグジという「古層の神」が、たくましく生き残っていた世界があった。芸能と技術を専門とする職人たちの世界では、この精霊はその名も「宿神(シュクジン)」と呼ばれて、芸能に生命を吹き込み、技術に物質を変成させる魔力をあたえる守護神として、大切に守り続けられていたのである。
この本文から察すると、山にある磐座、諏訪発祥のミシャグジ信仰と、縄文人と石の関係が紐解ける。
自然の岩、それが小さくなった石には、「成り立ち」の記憶が宿っている。それが自然の知性となり、後から出来た人間を主導していたと考えられる。
山にはあらゆるエネルギーが凝縮されているといつからか感じていたが(私にとってはあまり好まないエネルギー)、各地にある自然を、今で言う神のように感覚し、人間自身はそこに投影して自身に取り入れて循環していた。自然のように生きようとしていたのではと思われる。
神社が現れ、神に名前を付けられ、個の中に自然の神がいなくなり、局所にある神社に参拝する時だけ神を想う形となってしまった。
ここで、「宿神」が芸能や技術に、精霊が守護神として残ったと書かれているが、全ての個々に残っていなければ、神社と同等の役目である。
現在でも然りだが、自分の技術に磨きをかけるときゾーンに入る。これが守護神、指導霊と言われる精霊でもある。今では、ゾーンという一時的なものだが、縄文の時代は、常にゾーンの状態だったのではと思う。
今気づいたことがある。俗にいう守護神、守護霊とは、頭の中の人々のことではないか。自分の過去世の一人であり、また、血脈の中の仏様の場合もある。
それらの精霊的役割のものが自分の中にいるにも関わらず、世俗にいては外界の魅惑に絆され、内側に精霊を見出すことが出来なくなってしまったのだ。
本書の冒頭を読んで、各地の文献に連なる神の名前の由来、その名前を付けられた時代とその時代背景を知りたいと思った。
こんなにも各国・各地の歴史が研究され歴史書があるのは、日本の縄文という生活文化が謎である故ではないかとさえ私は思えて来たのだった。
冒頭だけで結構満足してしまっている自分がいる。
書き忘れていたことがあった。
「人間が超越的なものについて思考するようになってまだまもない頃」と本文に書かれているが、これが何を意味するのかはっきりしない。「超越的なもの」とは、自然の成り立つ神秘のことかしら。
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