後に残るモノ
とある本を読んでいた。
この文章、私には半分も理解できひんのです。ラカンのいう「去勢」から勉強せなあかんのです。
カタカナ表記は、曖昧に本質を見せる技法はたけている。そのため、なんとなくを捉えて欲しい場合は有効的である。
言語の内側にしか居られない人間はどのくらいいるのだろう。
日本語も標準語だけを理解出来ればいいとも思わないが、この本は専門書ということもあり、伝える人物を限定している。
使う言語により民族は限定され範囲は決まる。
研究内容の発表は自己満足以上でも以下でもない。(私は常にこの範囲内)
勉強すればするほど知識を得れば、それだけ精神性は下がり傲慢な態度となる。(という持論)
知識を得た分だけ、自身の内観が必要である。その研究・知識を所有したことにより自身はその情報を何にどう扱うのか。その時に自身は何を得て何を失うのか。
大抵の自身は知識の所有により、他者との差別化、また優位に立つことで、崇められたいという承認欲求を満たすためだろう。
これは人間個人の問題。
社会的には、それによって、
物質はより高度な成長を遂げた。
現在は二元論の選択故に、全てが二極化し、
循環が喪失している。
循環が無くなれば何かが破壊される。
何が破壊されるのか?
当たり前だが、余分なもの、不必要なもの、価値のないもの。
後に残ったものを見れば、その時、余分だったもの、価値のなかったものが何であるかわかるだろう。
極の外縁でターンし、若しくは破壊され、
真理の内部に進んでいく。(だろう)
という予測は簡単。
現象としての5Wは私には知る由もない。
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