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シュペーアに学ぶ人格構造の形成
シュペーア「ヒトラーの建築家」こちらの本を読みたかったのだけど、
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高価で分厚い「ヒトラーの建築家」を読む前にまず、シュペーアの人物の概念を入れるため、ざっとYouTubeで観て、この「回想録」を読んでからにしろと、娘に指示され、年季の入った本書を手渡される。
では、そのようにしようと思ったのである。
さて、YouTubeでは、彼はブルジョア階級の建築家で資産家の裕福な家庭の息子として生まれた。ヒトラーと出会い、ヒトラーの望む数々の建築物を手掛けていった。後に軍需相まで昇り詰め、ヒトラーの友人であり側近と言われるほどになるも、ヒトラーの負け戦への指示と手掛けた建造物の破壊命令などから、ヒトラーの元から離れる決意をする。それは終戦間際で、ヒトラーが亡くなる直前だった。その後、戦犯により20年の禁錮刑、独房でこの回想録を書くこととなる。数々の巨大な建築物は戦争等により殆どが失われた。
などの予備知識を得て、回想録を読み始めた。
読み始めて直ぐにシュペーアの人となりが発覚する。
冒頭の部分を抜粋する。
「日本語版によせて」より
───刑務所のなかで私は、諸国の新しい建築を勉強する機会をもった。私は、日本の建築について、たくさんの本を手に入れた。そして、この繊細な感覚を持ち、芸術的才能の豊かな民族が、その伝統と手工芸的能力とを、近代の生活形態と結びつけて、ひとつの共存を実現する方法を理解していることに驚嘆したのであった。この繊細な感覚をもって、私が解明しようとこころみた困難な諸問題を理解されんことを、日本の読者諸氏に、切に期待する次第である。
一九七〇年九月二十八日 ハイデルベルクにて
アルベルト・シュペーア
まえがきより前の部分の2ページ、その最後の一節だ。日本人に対し、所謂「尊敬と謙遜」という善意をここで意思表明している。きっと各言語に合わせ、最後のこの文句を変えていたのだろうと窺える。
P18、19より抜粋
両親は子供たちが楽しい少年時代を送れるように、なにくれとなく気を配った。しかしその願いを果たさせたものは、やはり富と名声であり、社会的義務感であり、膨大な家計と召し使いたちであった。私は今でもこの世界の虚飾と堅苦しさを思い出す。そのころ私は、ときどきめまいを起こし卒倒することがよくあった。診察したハイデルベルク大学の教授は「血管神経虚弱症」という診断を下した。この弱点が私の大きな精神的負担となり、早くから私を外的圧力にさらした。 その苦痛は、遊び仲間や兄弟たちの身体はがんじょうで、とても彼らにかなわないと思っていただけになおさらだった。
幼少期の頃の想いを綴られている。
以下も、10代の社会に対する自身の内部形成と思われるポイントだけを抜粋する。
・私は今でも、この世界の虚飾と堅苦しさを思い出す。ときどき目まいを起こし卒倒することがあった。
・のちに私が不愉快な人間関係の中を粘り強く切り抜けられたのも結局は子供時代のこの肉体的弱さによるものだと思う。
・地階の暗い質素な家令の娘(就学前の遊び友達)の家に行くのが好きだった。その貧しい雰囲気と、肩を寄せあって生きている暮らしぶりが、私にはたまらない魅力だったのだ。
・私は時々いく晩も柔らかいベッドのわきの堅い床の上で寝た。堅い床のほうが第一戦の兵隊さんたちと苦労を共にするのにふさわしいと思った。
・マンハイム空襲がたび重なるようになった。そのうちに私の青春の一ページが始まったのである。
・16歳、ボートレースの熱心なこぎ手となり生まれて初めて私は名誉心にとらわれた。それは自分でも信じられないような力を私から引き出した。
・注目を浴びるチャンスをつかむというより、私のリズムによってチームのリズムを定めるという感動のほうがはるかに私をひきつけた。私のチームは常に負けていた。
第一次世界大戦が始まるまで、また終戦以降も富裕層の子供である故の、悩みが書かれていた。庶民の友人を作ると親からしかられ、町の公園には遊びに行けず、出かける時は、社会的地位にふさわしい身なりに整えなければならない。
友達から自分のお小遣いでサッカーボールを買うという知恵を教えられたが、その行為は不良行為になる世界なのだ。
その他、数学にのめり込んだこと、トップの成績だったこと、教室で受けられる勉強が文学的知識を詰め込むだけで政治の世界とは無縁だったこと、
ブルジョア的・保守的な世界観に基づき、社会における権力配分や伝統的な権威が、神の御旨として押し付けられていた。
ボートレースでのリーダー的役割、名誉心の形成、ここでいう感動とは支配欲が満たされた時の達成感である。
私は、いつも考えることがある。
適切とは何かである。これがとても難しく感じる。
頭がいい人とは、物事をその場に応じ、詳細を分析し把握して判断し、その伝達や伝達の仕方、皆が納得する立ち振る舞い、それが効率よく適切である人のことだ。
それがシュペーアだと感じた。
また、最初の謙遜は、自らを尊敬して欲しいという顕現であり、子供時代に培ってしまった承認欲求と支配欲を、刑期が満了した後も尚捨てることが出来ないと観て取れたのだった。
相手に合わせて上に下に身軽に物腰柔らかく立ち振る舞いができる頭のいい人だ。
娘は中二、中三の頃、本書を読み、ナチスの“それ”で気持ち悪くなったようだが、私は冒頓から、吐き気がする(ツァラトゥストラ風)。
時代と人種的距離も離れているため。そこまでの吐き気ではない。“彼“との出会い方までもう少し読んでみたいと思う。
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