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文学・哲学小説『嘔吐/J・Pサルトル』をまったりと読む。


───パイプに煙草をつめなければならない。しかしそれをするだけの気力がない。両腕を垂らしたままで窓硝子に額をつける。あの老婆にはいらいらする。彼女は虚ろな眼をしてとぼとぼと頑固な様子で歩いて行く。ときどき眼に見えぬ危険に軽く触られたかのように怯えた様子で立止まる。

いま窓の下にきた。風のためにスカートがぴったり膝にくっつく。立止まり肩掛けをなおす。手が慄えている。再び歩きだす。私はいま彼女をうしろから見ている。老いぼれのわらじむし。

彼女は右に折れてヴィクトール・ノワール並木通りへ行くだろうと思う。そうすると百メートルばかり歩かねばならない。あんな歩き方なら、たっぷり十分はかかるだろう。その十分間、私はここにこうして窓硝子に額をつけて彼女を眺めているだろう。彼女は何回も立止まるだろう。歩きだし、また立止まるだろう………。

 私は未来を〈見ている〉。未来はそこに、街路に腰を据えていて、現在よりもほんのわずか色が淡いだけだ。なんの必要があって未来が実現されるのか。実現されてなにを得るのだろうか。

老婆はとぼとぼと歩いて遠ざかって行く。立止まり、肩掛けからはみでている灰いろの毛髪をかきあげる。彼女は歩いている。さっきまではあそこにいたが、いまはそこにる・・・・・・。

自分がなにをしているのか、もうわからない。彼女の動作を〈見ている)のか、それとも〈予見している)のか。

私はもう現在と未来とを区別できない。しかしながら現在が継続し未来がだんだん実現されてゆく。老婆は人影のない街路を進んで行く。

P52

 なんら変哲のない、ただ老婆が窓の下を通り過ぎて行くだけの描写だが、面白くて仕方がない。熟読してしまい文章が進まない。

是非にと思うのだが、最初の「………。」のところに、「彼女は関節跛行なのだ、もしかしたらパーキンソン病を患っているかもしれない」という文章を入れていただくと、もっと面白さが増すかもしれません。

「未来はなんの必要があって実現されるのだろう、実現されて何を得るのだろう」
という一文を追求していたら、また一定期間ここに戻って来れなくなる可能性があるので、今はその衝動を抑えつつ、『嘔吐』に張り付いていたい。

老婆は人影のない街路を進んで行く。大きな男物の靴を移動させている。
これこそ時間だ。まったくありのままの時間である。それは徐々に存在を獲得する。未来は待たれている。未来がやってきたとき、人々は嫌悪を催す。未来がそこに、すでにずっと前からあったことに気づくからだ。老婆は街角に近づく。

P52、53

 ん?

男物の靴を移動させているということは、男物の靴故に動き難く何回も立ち止まっているのかもしれない。関節跛行の原因はパーキンソン病ではなく、男物の靴だったという可能性も発覚した。

しかし、「移動させている」という表現は、必ずしも靴を履いていることにはならない。手に持って「移動させている」ことも可能だ。

ここまでではまだ、病気か否かはわかっておらず、ただ老婆が道を歩く所作に「私」はいらいらし、老婆は何回も立ち止まっているという事実の提示だけなのだ。

 先ほどの問いの答えらしきものが少しばかり書かれていた。

「未来がそこにすでにあった」のだ。
確かに過去は順不同で振り返ることができるが、未来は何故か順番に訪れる気がする。

不思議である。

 このあとも、さすが劇作家だ。平坦な日常を思わせた後で、不思議なパワーワードが連なる。

しばし、項の幻想に沼ってみるのも逆にいいのかもしれない。サルトルのことだ、この沼りさえ、何も残さずスッキリと相殺させてくれるに違いない。

自分で相殺させなければならない文章は疲れる。
ゆるりと読んでいたい。

本文とは無関係 「紫陽花」





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