文学・哲学小説『嘔吐/J・Pサルトル』をまったりと読む。
なんら変哲のない、ただ老婆が窓の下を通り過ぎて行くだけの描写だが、面白くて仕方がない。熟読してしまい文章が進まない。
是非にと思うのだが、最初の「………。」のところに、「彼女は関節跛行なのだ、もしかしたらパーキンソン病を患っているかもしれない」という文章を入れていただくと、もっと面白さが増すかもしれません。
「未来はなんの必要があって実現されるのだろう、実現されて何を得るのだろう」
という一文を追求していたら、また一定期間ここに戻って来れなくなる可能性があるので、今はその衝動を抑えつつ、『嘔吐』に張り付いていたい。
ん?
男物の靴を移動させているということは、男物の靴故に動き難く何回も立ち止まっているのかもしれない。関節跛行の原因はパーキンソン病ではなく、男物の靴だったという可能性も発覚した。
しかし、「移動させている」という表現は、必ずしも靴を履いていることにはならない。手に持って「移動させている」ことも可能だ。
ここまでではまだ、病気か否かはわかっておらず、ただ老婆が道を歩く所作に「私」はいらいらし、老婆は何回も立ち止まっているという事実の提示だけなのだ。
先ほどの問いの答えらしきものが少しばかり書かれていた。
「未来がそこにすでにあった」のだ。
確かに過去は順不同で振り返ることができるが、未来は何故か順番に訪れる気がする。
不思議である。
このあとも、さすが劇作家だ。平坦な日常を思わせた後で、不思議なパワーワードが連なる。
しばし、項の幻想に沼ってみるのも逆にいいのかもしれない。サルトルのことだ、この沼りさえ、何も残さずスッキリと相殺させてくれるに違いない。
自分で相殺させなければならない文章は疲れる。
ゆるりと読んでいたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?