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What is “university”?

「大学とは人生の夏休みである」

おそらく一番有名な大学の定義だろう。

そして大学生にとって、自分こそが反例であると主張したくなる定義だ。

しかし、こんな誰が言ったかもわからない冗談半分な定義を、今日になってもなぜ我々大学生は完璧に「偽」として、以後歯牙にも掛けないとすることができないのか。

それはやはりある程度、この定義が的を得ていると思わざるを得ないからだろう。そうなるとちょっとは反駁したいという気持ちが湧いても不思議ではない。

私はこの定義はある意味正しく、またある意味では間違っていると思う。つまりこの定義は、大学生の遊ぶという側面を強調しすぎた定義だ。確かに間違ってないが、それで大学の全てを言い表せているかというと、そうではない気がする。

ではどう定義し直すといいのだろうか? 新学期も近づき、新大学1年生も誕生して間もないということで、今回は大学の定義、「大学とは何か?」について考えてみようと思う。


まず大学というのは、一元的な定義が非常に難しいということをご承知おきたい。これはすでに大学にある程度在籍している、あるいはしていた人であればお分かりいただけると思う。

これに関して、大学にこれから入学する、あるいは近い将来進学予定であるという学生から出てくる、ある意味当たり前と思われる問いを出発点にして考えてみよう。

「大学って学問をする場所ではないのか?」

この定義も「夏休み」同様、大学のほんの一部を表現できているに過ぎない。というのも、私が反例を挙げることができるからだ。

私は地元に帰ってぼんやりとテレビを見ていると、聞いたこともない名前の大学のコマーシャルをよく観る。そういう大学の売り文句はだいたいこれだ。

「就職率100%」「〇〇合格率96%!!」

数字、数字である。某予備校とやっていることがほとんど変わってない。

ここにはたとえ背後に「勉強」はあっても、「学問」はおそらくない。つまり、「なぜ」を考える過程をすっぽかし、出来上がったものだけをいいとこ取りしている。こんなショートカットをしていたら、この非常に高い数値が維持できるのも納得がいく。

このように大学というのは、「学問」「就職」「夏休み」といった様々なワードとニアリーイコールの関係で結ばれてしまいやすい。この関係式は、時代が大学に要請することによってもガラリと変わってくるのだろう。

そうなると「”大学” ≒ t ( t は時代によって異なる変数) 」となってしまう。

しかし、定義とは物事のあらゆる出発点。『個人主義と恋愛』でも触れたように、時間が有限な以上、この定義をしっかりさせておかないと、あとになって方針を転換することは非常に難しい。


ここからは、私が限りなくイコールに近いニアリーイコールというものを紹介したい。

それは次の定義だ。
「大学とは”自分自身になること”を極める時間である」

簡単にではあるが説明をしよう。

まず私は大学に身分を置くことで得られる最も大きなものは、4年間という「時間」であると考えている。このモラトリアムがなければ、そもそも大学生ではない。

そして次に、このような時間を与えられて何をするかである。それは出来るだけ多くの時間を、「自分自身になる」ことに注ぐのではないかと思っている。

ここでいう「自分自身」とは就活などで自己PRとして書くものも含むが、それにとどまらないもっと本質的な”生“や“死”に通じるようなものだ。

「自分は誰を好きになって、誰とこれからの生を共にするのだろう」
「いやもしかすると自分はこの先一生独身で生きていくのがいいのかもしれない」

このような自問自答というのは、多少大げさにいうと、人間の本質な問いに本格的に取り組むということ、つまり「生きるということは何か」「幸せとは何か」といった問いに自分なりの答えを出そうとする営みであるとも言えるのかもしれない。このことをも指して「自分自身になる」と表現している。

モンテーニュはこう言う。


われわれの偉大で光栄ある傑作とは、ふさわしく生きることである。そのほかのことは、皆、せいぜい付帯的二次的な事柄に過ぎない。

大学とは、ここでいうような“ふさわしく生きること”を極めるだけの十分な時間を若者に与える、人生の中で数少ないチャンスであるということが言えるだろう。


ここまで自説を展開してきて、こういう結論になるのはあまり好きではないが、定義は1つではないということを最後に強調しておきたいと思う。

一元主義のように、正解は1つしかないというつもりもないし、かといって相対主義のように何でもかんでも正解候補になるとも言わない。ただ1つではないとだけは言いたい。

もちろん私だって、これまでずっと大学についてこのように考えてきたわけではないし、しばらくすればどうせ考えもガラリと変わる。今回記したのは“思考のマイルストーン”として書き残しておきたいと思ったからだ。

アランもこのようにいっている。

最初の舵の動かし方で一航海の全てが決まると言ったら、船乗りはきっと笑うだろう。

「〇〇は△△だ」というように、なんでも形而上学的に分かったような顔でいてはならない。ロールズのように、常に合理的な推論を通じて考えを修正し続けねばならない。

私自身、スムーズにいけば大学にいられる時間はあと1年と非常に短くなってしまい、もう自分自身のための時間はおしまいなのかと思うと、かなり残念な気持ちになる。

それでも1年後の卒業の時。そのときに大学をどのような場所として再定義し直しているか。これを楽しみにしつつ、残り1年を自分のために使っていきたい。