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名前に意味の無いわけ

 このところ色々な手続きで娘の名前を書きまくっている気がする。こんなに名前を書くのは、小学校の入学準備で、持ち物に名前付けをした以来かもしれない。あの頃を懐かしく思うのと同時に、名前にまつわる苦い出来事を思い出した。

 娘が小学2年か3年の時に授業で『自分の名前の由来を調べる』というのがあって、私は「名前に意味は無くて、呼びやすい、書きやすい、覚えやすいで決めたの。」と答えた。そして、その授業があった日の夜、唐突に娘が私を睨みつけるようにして「先生が名前に意味の無い人なんて居ないって言ってた!」と言い放った。その目には薄っすらと涙が滲んでいた。何となく、こんな事になるような気もしていた。もっともらしい嘘の理由をつけてもよかったけど、本気で付けた名前なので正直に話した。それでも、言葉が足りなかったことを反省した。

 臨月の頃、子供の名前は男だったら夫が名付けて、女だったら私が名付けることに決めた。そして、女の子の誕生で私が名付けることになった。私は名前を付けるにあたって、そもそも名前は何の為にあるのかを考えた。アレコレ考えたけど、名前は他人に自分を認識してもらう為にあるのだという単純な思いに至った。他人さまに覚えて、呼んで頂くのだから、呼びやすく、覚えやすい名前にしよう。親しくなって、呼び捨てでも呼びやすいように、歯切れの良い2文字にしよう。一目で読めるように、平仮名にしよう。こうして名前を決めた。もちろん名前に意味は無い。

 それに、意味など付けたく無かった。なぜなら、何の色もつけたくなかったから。例えば、私の願い…みたいなちっぽけなものにも染めたくなかった。充分にその子らしさを持って生まれてくるのに、私がこんなふうに育って欲しいなんて願うのは余計なお世話だと思った。しかも、産まれたばかりの心もとない小さな娘を見ていると、願いや希望なんておこがましく思えてくる。『死なないで無事に育って欲しい』それだけ。願いというより、祈りのような気持ちしかなかった。

 そんなことを当時の娘に話したところで、ややこしくなりそうなので話さずにいた。そして現在、思春期真っ只中の娘に話したところで、今度は気味悪く思われるだけだろう。そんなこんなで、いまだにキチンとした名前の由来を話せずにいる。娘のためにも、いつか誤解を解かなければいけないとは思っている。決してテキトーに付けた名前ではありません!

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