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なぜ?という疑問の前で

人には人の数だけ心の営みがあって
例えば
目の前の出来事への  己のささやかな疑問すら 
全否定される 歯がゆさや悔しさは

対する人の想いそれぞれを
一つの個性故と受け止めて

現実は
目の前のものを見ないように
聞かないように
囚われないように

その場から逃げるように
心の目と耳を塞ぎ

それ以上を言葉で飾る事もせず
腹を立てず
愚痴を言わず

言葉を忘れたように
黙るしかないのか

けれども、相対する者の
自己保身の為の 言葉の上っ面を掬い上げて
一番知りたい疑問に耳をかさず
思い過ごしと空想と言う言葉を叩きつけても、
その言葉を素直に受け入れるほど
私は
長い期間 地を這うようにして見てきた事実と
積み重ねた己の想いを否定したくはない。

まして  不幸紛いを振りかざして
哀れみが欲しいわけじゃない
慰めの言葉が欲しいわけじゃない
それによって一定の人の輪の中にいたい訳でもない

現実を知らない者から
そんな小さな事にこだわり過ぎるな  という言葉も聞いた


家庭というCOSMOを軸に この20年
平然と続いていた外での出来事は
見も知らぬ者にとっては、単なる些細な事なのか…

罪の意識がなければ、認めなければ、
それは  誰でもが許される事なのか…

目に見える傷なら、いつかは癒えるだろう
だが、心に負った傷は癒える事はない。

なぜ? という その疑問が解けさえすれば
癒えずとも 心から溢れ出た血は止まるのに。

たった一つの真実さえも
知らない、わからない という無責任な言葉に紛れて
その答えを 永遠に見つけられなければ
立ちふさがる壁すらも 超えられず
私は このまま朽ちて行くしか無いのだろうか。

回り道をするには  もう時間がない。
ならば
そうまでして
私は、なぜ生きて行く?

人を疑うという事は哀しい事だ
自分を貫く事は  苦しい事だ
そうまでして
私は、なぜ生きている?



拙い文章です。サポート頂くことは考えておりませんが お心遣い下さった方へ、心から感謝申し上げます どうかこれからも暖かく見守っていただけますように。