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仮説:発達障害者はスーパーヒーローになれる


『スパイダーマン:スパイダーバース』をというアニメーション映画をご存知だろうか。
普通の少年マイルスが様々な出会いと別れの末にスーパーヒーロー・スパイダーマンになるまでを描いた作品だ。
作中、彼は思いがけない事故によりスーパーパワーに覚醒する。
車を持ち上げる怪力、危険を察知する超直感、そしてスパイダーマンを象徴するクモ糸の射出能力。
それら身に余る能力に振り回されながらも彼の精神は次第に成熟していき、やがて正義を成し遂げて世界を救う英雄となる。
映像的にも見るべき部分が多く、見たことのない方がいれば是非とも目を通して頂きたい傑作ではあるのだが、今回の本題は映画レビューではない。
今回は、ぼくを含めた発達障害者をこのスパイダーマンのようなスーパーヒーローとして再定義し、それぞれの生き方を前向きに捉え直す事が記事の目的だ。
それでは早速、仮説を検証していこう。

まず、スーパーヒーローの定義を考えてみたい。何を持っていればスーパーヒーローだと言えるだろうか?
・誰かの痛みを分かち合える優しさを持っている
・自分の力を誰かのために使い、悪に立ち向かう勇気(良心)を持っている
・スーパーパワーを持っている

ぼくが考える感じ、ざっとこれだけ出来ればスーパーヒーローだと言えるだろう。
では要素の一つ一つをぼく達発達障害者に当てはめてみよう。

最初は優しさについて。ぼく達発達障害者は、そうでない人よりも多くの人の痛みを知っている。
何故ならぼく達自身が人よりも多く傷付いてきたからだ。周囲の理解が得られない、誰かの当たり前が分からない。皆の普通がこなせない。
ぼく達にしか聞こえない悲鳴を、ぼく達は聞き分ける事が出来る。後はその声にどう向き合うかのやり方一つだ。
世に蔓延する冷酷な声に倣って「自己責任」「甘え」「隔離しろ」で片付けるのか?
それとも同じ痛みを知るものとして悲鳴に寄り添い、励まし、手を取り合って理不尽に立ち向かうのか?
ぼく達は誰でも後者を選ぶことができる。それを忘れずにいれば、スーパーヒーローの第一歩は既に踏み出せている。

次は勇気について。急に「善を成す勇気はあるか」なんて聞かれたら尻込みしてしまう人も多いかもしれない。僕もそうだ。
けれどもう一度考えてみてほしい。自分と同じ傷を持つ人が石を投げられていて、それで我関せずだなんて態度でいる方がよっぽど怖くないだろうか。
身体を張って庇う事は出来ないかもしれない。でも、言葉で制止する事は出来る。傷付いたその人に包帯を巻くことも出来る。
勇気とは常に最も過酷な道を選ぶ事ではない。勇気とは立ち塞がる現実の前に自立して、そこから自分に成せる事を成す気概を言う。
今の世の中があなたに対してどれだけの逆風を吹き付けてきたか思い出してほしい。受けた理不尽の数は一つや二つではないはずだ。
そして、あなたと同じ理不尽をこれから受ける事になる人の数も一人や二人ではない。世間が変わるには長い長い時間がかかり、その間にも涙は増え続けていく。そんな中でぼく達の仲間を助けるために、ぼく達には何が出来るだろうか。
自分のことで精いっぱいで、誰かを助ける余裕なんて無い。そういう声もあるだろう。だが、人は誰かを助ける人を助ける。孤軍奮闘を決め込むために握り締めた両拳の片方だけでも解いて、そっと身近な人に伸ばしてみるのはどうだろう。
いつもよりほんの少し頑張って誰かに伸ばした手は、やがてあなたへと差し伸べられる。それに気づければ、あなたもスーパーヒーロー足り得る存在だ。

最後はスーパーパワーについてだ。ここに来て違和感を覚え、眉をひそめる読者はきっと多いだろうと推測する。
「どうせ、障害はギフトだとかなんとか言うのだろう」「過去の偉人を引っ張り出して、こいつもあいつも発達障害だった。だから……なんて特例を持ち出してお茶を濁すのだろう」
今にもそんな声が聞こえてきそうだ。実際、今まで障害と特殊技能を絡めた話題はどこか空々しく、絵空事のように見えるものが多くを占めていたと思う。
であるならば、異なる方向からのアプローチを試してみる必要があるだろう。たとえば、ぼくが持っているスーパーパワーは「タイピングが出来ること」と定義してみる。
そしてこれに対する反論として真っ先に思いつく「そんなもの誰でもできる」に対しての再反論を試みてみよう。
まず第一に、誰でも出来るとは限らない。たとえば、植物状態でものを認識できない方がタイピングをするのは不可能だろう。
そして第二に、こちらが最も重要なのだが、肝心なのは自分ができる事に自覚があるかどうかだ。タイピングが出来る事を能力として自覚している人とそうでない人には、後々の成長において圧倒的な差が生まれる。
タイピングが出来る事が分かっていれば、それを使って何が出来るかも見えてくる。データ入力の業務が行えるだろうし、書類構成さえ学んでしまえば議事録などを作る事も可能になるだろう。
一方タイピングが出来る事を能力として自覚していない場合、多くの成長へと続く道が閉ざされてしまう。自分には何も出来ないと思い込み、塞ぎ込んでしまう。非常に勿体ないことだ。
こんな事態を防ぐためにも今一度、誰でもない自分自身が何を出来るのか根本の部分から考え直してみる必要がある。簡単すぎると思ってしまうくらいの事でかまわない。
手は動くだろうか?足は?目は耳は?どうかしっかりと自覚してほしい。それら全てがあなたに与えられたスーパーパワーだ。
そしてこれらのパワーは努力と工夫を重ねる事で、どこまでも個性的に進化し続けていく。あとは、ぼく達自身がどうするかだ。

しかしそうはいっても、大多数の人が出来る事が出来るだけでは労働市場では生き残れない。それもまた真実だろう。
ここでもう一度スパイダーマンの話をさせて頂くと、スパイダーマンに登場するヴィラン(悪役)はみなスパイダーマンよりも大きく、強く、巨大だ。
最も端的な例を挙げるならヴェノムというヴィラン。詳細は省くがスパイダーマンにそっくりな姿をしていて、かつスパイダーマンをあらゆる要素で上回るパワーの持ち主だ。
スパイダーマンから見れば上位互換と言える存在だろう。スペック上、勝る要素は何一つない。そんな相手にもスーパーヒーローである彼は立ち向かっていかなればならない。
何度も叩きのめされ、壁に打ち付けられ、全ての勝負で敗北しても彼は文字通り死ぬまで諦めず、あらゆる手段を試し続ける。そうして重なった偶然と工夫で、彼は自らの上位互換を見事に倒してみせるのだ。
これはそのまま、健常者ベースで進んでいく仕事社会に立ち向かう僕たち発達障害者にも当てはまる構図ではないだろうか。
ヒーローに対するヴィランはいつだってヒーローよりも強い。それを納得した上で、自分に与えられたスーパーパワーと優しさと強さ、不屈の意志で立ち向かう。それが出来る人をこそ、スーパーヒーローと呼ぶのだろう。

ここまでの文章をまとめると、幸いぼく達には優しさと勇気、そして自覚できるいくつものスーパーパワー。スーパーヒーローに求められる要素を全て持っている事が分かった。
ならば今こそ叫ぼう。発達障害者はスーパーヒーローになれるのだ!
繰り返しになるが、後の全てはぼく達が、そしてこれを読んでくれたあなたが何をするかに懸かっている。
自らの運命を受け入れてなお立ち上がれるヒーローが一人でも多く誕生してくれる事を、心から祈ろう。

さて、最後にスーパーヒーローを志す障害者の方へお勧めしたいのが、多くの仲間を作る事だ。
三度スパイダーマンの話をさせて頂くと、スパイダーバースの作中には複数のスパイダーマンが登場する。そのうち主人公・マイルスの優しさに触れたスパイダーマンは、自分を害そうとする悪者としか関われなかった過去を回想しながらポツリと呟く。
「仲間っていいな」
ヒーローの孤独と繋がる事の強さを的確に表した名台詞だ。事実、このセリフを呟いたスパイダーマンは自堕落な精神を切り替え、英雄として覚醒する。
そしてこれはヒーローに限った話ではない。全ての人間は生きているだけで飢えや病の苦しみに追われている。そんな時仲間がいれば「いいな」と思えるのは、ヒーローもぼく達も一緒なのだ。
古くからある考え方でとっくの昔に聞き飽きたかもしれないが、もう一度だけ説明しよう。繋がる事で、人は確かに強くなる。
強力なヴィランに囲まれたぼく達障害者の立場なら、なおさら積極的に繋がって強くなる必要があるだろう。
恐れる必要はない、スーパーヒーロー仲間は沢山いる。
多くのヒーローが集まる事で、強敵を倒すチャンスはますます増えていく。必要なのはほんの少しの良心と電子のクモ糸、そして差し伸べる手だけだ。
それでは最後も『スパイダーバース』から、勇気を奮い立たせる映画のキャッチコピーを拝借して文章の締めとさせて頂く。
障害者よ、運命を受け入れろ。

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