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あなたが主人公の世界を。

あなたが主人公の世界をたくさん見てみたい。
色んな世界を生きる姿を見てみたい。
甘い恋も切ない恋も、恋じゃなくても。平凡な毎日を生きる学生とか、会社員だとか。色んな作品で色んな役を通して、もっと色んな顔を見てみたい。
私の頭の中の簡易的な想像(妄想)なんかで終わらせてたまるか、なんて大口叩いてみたり。
7人7様の表現を通して楽曲の世界を魅せてくれる7人を観ていて、そう思うことが増えた。

+81を見ていると、一人一人その楽曲やダンスの世界観の中で生きている‟主人公”のように見える瞬間がある。毎回毎回演じるように踊っているわけではないだろうから、そのほとんどが私の妄想で補完された「像」に過ぎないんだろうけど。いつも私は、ダンスと詞と表情と、私が抱く彼らへのイメージを合わせて、その主人公のひととなりや生きる世界を思い描いてしまう。

昨日公開された『雨傘』のように、物語性のある曲だと尚更。そこにいるのは紛れもなく、Travis Japanの中村海人なんだけど、冒頭のソロで降り出した雨を見上げるように上を向くその姿は、雨傘という世界の‟主人公”に見えた。
雨が降り出すのは、雨の匂いで気付くタイプで。雨の日はじとっとしていて少し鬱陶しいけれど、嫌いじゃなくて。空気の重たさが心の重力と調和するみたいに、雨空の下を居心地よく感じているような。そんな主人公。(※全てフィクションでお送りしております。うみちゃんと雨の親和性のみノンフィクション。ご了承ください。)

「思い起こせ生命」と大きく腕を振り切るところや、「濡れて帰れよ」の後の間奏も。私には、それぞれの背景を抱えた5人の主人公が、それぞれの雨の夜を生きているように見えて、1分40秒を見終えたとき、短編映画を観たようなそんな気分だった。

大学3年生の時、専門分野とは別に、ジャニーズアイドルについて研究したことがあった。その時読んだ本に、ジャニーズ事務所では、ダンスが全ての基本になっているという考えのもと、歌やお芝居のレッスンは行われていない、というようなことが書かれていた。その時は、まだその本質を捉えきれなかったんだけど、Travis Japanのダンスを通じて、ここまで想像を膨らませてしまっている今なら何となく分かる気がする。
体一つで表現する。どこで踊るか、何を着て踊るか、というのも表現の大事な一つの要素だろうけど、究極、魅せる場所なんてどこだっていい。ステージ上でも、スタジオでも、いつものレッスン場でも、廊下だって、街中だって、体一つあれば魅せられる。言葉を使わずとも、何かを伝えられる。言葉が通じなくても、感情を共有できる。確かに、表現の根幹であり究極の形なのかもしれないな、なんて。

そんなダンスが、彼らの表現の基盤になっているのだとすれば。なんだって表現できちゃいそうで、演じられちゃいそうで、ワクワクするんだ。
ダンスも歌もお芝居も、雑誌とかで見る静止画の写真だってそう。その時、その場所で、魅せたい姿を、培ってきた表現力で見せてくれる。(色々な条件や指示があるだろうから、「魅せるべき姿」の方が正しいのかな。)
彼らが表現したものと、私が受け取ったものが、まるっきり同じ形であればそれほど嬉しいことはないけれど、そんな奇跡は少ないのかもしれない。「あの曲は、どういう設定だったの?」と事細かに質問して、あなたの世界を知りたくなってしまう衝動を抑えて、観客である自分の想像力に託す。その余白も、ダンスを武器に表現力を磨いてきた彼らをみる観客としての醍醐味なのかな、と思う。

私は、あなたの表現を通して、あなたの世界に触れる瞬間が好きだ。
分からない、知らない部分がたくさんあるからこそ、分からないことが楽しい。どうしようもなく知りたくなってしまうのも、また事実なんだけど。
ダンス、歌、お芝居、言葉、写真。あなたがよく聴く好きな歌、好きな小説、好きな映画、好きなもの。
どれもかけがえないあなたの表現だと思う。その一つ一つを私なりに受け止めて、遠くからそっと、あなたの世界に触れて、その世界に生きるあなたに触れている。そんな瞬間がとても愛おしいから、この先もたくさんあると良いな。まだ見たことない世界が一杯あるし、見てみたい世界も一杯ある。

あなたが主人公の世界に降る雨が、あたたかなものでありますように。


と、まあ、煮え切らない文章をダラダラと書いたんだけど、ぎゅっと的を絞って単刀直入に言うと、『コイワズライ』の世界線みたいな宮近くんを見てみたいです。曲を再生しながら、歌詞を口の中で転がす私の頭はみやちかくんで一杯で、とてもとても苦しんでいます。笑
お芝居のお仕事とか、とか……また見たいな。