佐渡の海

アイデンティティのはなし

こんにちは、Miwakoです。しばらく更新していないまま、書きたいことはたくさんあるので、下書きばっかり溜まってきています(笑)。でも、まあこんな感じでゆるりゆるりと更新していこうと思います。

今回は「アイデンティティ」のおはなし。

そもそも、アイデンティティといっても何が基準だとかすら規定できない難しいものだと思います。今の時代、性別や国籍でもそんな基準には頼りなくなるほど多様化してきていますし、むしろそれはいいことなんじゃないか、とも思います。

わたしの「わたし」は、わからない。


わたしは教員になろうと今のところ思っていて、当然のように自分の地元の教員採用試験を当然のように受けようと思っていました。

そこで「ちょっと待てよ?」が発動。

なんで私は地元にこだわっているんだっけ?

地元だから、という理由は一般的には立派な理由の一つになるのですが、わたしは自分が地元にこだわった理由がよく分からなくなりました。自分の中で、当然地元に対して思い出もあるし、実家もあるし、懐かしさもある。だけどそれらは、地元が最終的に本当に自分がいる場所である根拠には、自分の中でならない気がしたのです。どこに行ってもいいし、どこにでも行けるのにな、と。それは実家でも、社会も国に対しても同じことがいえると思います。

自分が今生きているのは、生み育ててくれた人たちがいて、育った環境や地域・社会がある。それは揺るがない事実ではあるけれど、それが自分のアイデンティティのすべてである、というには何か違うような気がしています。

むしろ、わたしの中でのアイデンティティの捉え方としては、これまでの既存の環境や社会からの影響を受けつつ、でもそこから自分が今何を好きだとわかって、どこにいたくて、誰と何をしていたくて、どんな場所がそんな自分とマッチしているか、ということを探す中に規定されている部分がものすごく大きいと思っています。今までの文脈だけで自分のすべてのアイデンティティを形成しきってしまうことって、すごくもったいないと思ってしまうのです。


もつこと、もたないこと


結構前に日本とナイジェリアのハーフの方にお会いする機会があって、その方に「自分の中のアイデンティティはどっちなのですか?」とお聞きしたことがあります。今考えるとものすごくナンセンスな質問で恥ずかしいのですが...。その時にその方は「どっちでもあるし、どっちでもないかも。」ということをおっしゃっていました。純粋にその時は「そんな感覚なのか!」と驚いたことを憶えています。

アイデンティティって、わざわざ自分を既存の枠組にもっていくものではなくて、内発的かつ自然発生的に生まれるものとしてゆるーく捉えた方が楽、くらいの付き合い方でいいのではないかと思います「いつかは分かるだろう~。」くらいの。

既存の枠組にわざわざ嵌め込もうとすると、そこからはみ出してしまったり当てはまらなかった自分のことがよくわからなくなって苦しくなる気がするのです。
そもそもアイデンティティって性別とか国籍といった人工的な枠組がすべてじゃないはずですし、こんなにたくさんいる人間がその枠組に収まりきる方が変な話。

なくても苦しむこともあるけど、それがあることによって苦しむこともある。でも、あってもなくても、ここにいるわたしは「わたし」であることに間違いはないはずですもんね。

アイデンティティってこういうもの、と言い切る必要はなくて、なんかよくわからないけどその「分からなさ」もアイデンティティでいいんじゃないか!

あっても、なくても、分からなくても、良いんだと思います。

わたしは、これから自分がいる場所や一緒にいる人がどんなものかはわからないけど、少なくとも「それは今わからない方が楽しい」と思っている、ということが今のところの自分のアイデンティティです。

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