愛は尊いだとか

 幻想だよ、って思ってしまう。

 執着だし醜いし苦しみだしエゴでしょう。理性とはもっともかけ離れたところにある感情だと思う。でも、それは「先生」が言うように「罪悪」だろうか。

 なにかと合理性が求められ、健康管理すら外注し、自分で選択するということがどんどん減っていくこの世の中。伊藤計劃の『ハーモニー』のように、AIが指示する生活を送る日も近いのではなかろうか。

 そんな中で、人を愛するということは、もっとも非合理的で人間性の発露でもあると思う。芸術に通ずるものがある。

 欲望の話をしよう。
私は欝になって、三大欲求が著しく減じた。食べたいものが分からなくなったとき、なにもしたいことが無いとき、好きだったはずのことが出来ないとき、「欲」の大切さが身に染みた。人間は「欲」があるからこそ生きているのだと思う。それは美しくはないかもしれないけれど、人間が人間たる理由の一つだと思う。 
 私たちは思考する葦である。ただの葦になれないのは、無駄なことに悩み、執着し、他人に期待し、勝手に絶望し、時には死にたいとさえ思うからだ。

 恋が罪悪なら、人間もまた罪悪を抱えた存在である。原罪染みた話になるけれど、それこそ楽園で永久に神の加護のもと生きていたら、それは人間と言えたのだろうか。苦しみや恥辱を抱えてこそ、人は人として生きられる。そうした意味で、私は楽園からの追放を、「解放」とも捉えている。

 愛が殊更に難しいのは、相手がいるということである。自分一人悩めば解決するものではない。思いが通じても何時かは離れる時が来るかもしれないし、立ち直れないほどの傷を負うかもしれない。アガペーという愛の形は、人が抱くには高尚過ぎる、神の愛である。

 きっとこれから私は愛する人たちを失くすだろう。亡くすだろう。順当に行けば祖母や両親は私より先に逝ってしまうだろうし、私が先に逝くことは可能な限り避けたい。皆より先には逝かないこと、それは私が唯一していられる、孝行だと思うから。

 恋人もいつか別れる時が来るのだろう。何があっても明日愛している自信はあるが、明後日も愛している自信はない。人生は何が起こるか分からないから。

 いつぞや愛した人に振られたとき、泣き腫らした次の朝の空が絶望するほど美しかった。「ああ、私になにがあっても地球は回るのだ」。そう思うと、救われもしたし、慟哭もした。

 でも、全て悩めば解決するものではない。私は愛したいときに、愛したい人を、愛したいように愛するだけなのである。結婚だとか、そういうのはどうでもいい。ただ、明日愛している自信がある人を、今は愛したいだけなのである。

 いつか失うその時に後悔しないために、好きな人たちには愛を伝えたい。

 人生で失わないものなど、殆どないのだから。

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