代替可能な精神

なんてSFでもあんまり描かれない(伊藤計劃を除く)と思うけれど、そう、まさに私は伊藤計劃を読んで「もしかして精神こそ代替可能なのでは?」と思い始めているふしがある。

例えばADHDの特性が薬を飲むことによって抑えられたり、抗うつ薬で希死念慮が薄まったり、すでに人間は脳に影響を及ぼす手段を手に入れ始めている。
脳とは人間の神秘にして最大の難関、などという意味合いのことはよく言われるが、それでも人の知的好奇心は尽きず、研究も止まないだろう。いつかその全てが解明される時が来るかもしれない。
そうなったとき、例えば怒り、哀しみ、マイナスとみなされる感情を抑えようという動きは、当然のごとく出ると思う。争いを防いだり、自暴自棄の人間を救ったり、人間にとってその運動はプラスになるかもしれない。

そうして……行き着く果てはどこだろう。
みんなが笑顔で、優しくて、柔和で、思いやりに満ち溢れ、争いは無く、平和で……?

人間は愚かで醜い。その醜貌を捨て去ることは、人間性を捨て去ることと同義なのではないか。
人がみなドリアン・グレイになったとて、どこかでその肖像は老いているのである。さて、私達の肖像はどこにあるのだろう?
何において対価を払うことになるのだろう?

抗うつ薬を飲んで生きている私は、果たして本当の私なのだろうかと度々思う。
無理やりセロトニンを分泌させて生き長らえることに、なんの意味があるのだろうと。

いつか脳の全てが解明されたとき、それは脳のコピーが作れるようになったときだ。
整形が珍しくもなくなった今、代替可能なのは身体だと思われがちだが、整形にも限度がある。いや、それも技術の進歩で確実に無限の可能性へ漸近してゆくだろうが、生まれながらに持ったもので目に見えて違いが分かるものは精神ではなく身体である。
掴みどころのない脳の反応より、身体的特徴のほうがよほど固有性があるのではなかろうか。

人が人でいられますように。
それは芸術の存続だと思うから。

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