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梅が咲いたら すぐにも桃も 留めは桜で 春爛漫

二千二十二年 三月

はじめに

この書は完成品の一部抜粋です。

シリーズ二作目です。
前作同様、この書には悪者は出てきません。
殺人などの物騒な事件も起こりません。
詐欺などのややこしい事件も起こりません。
そこには日常の神や仏がいらっしゃるだけです。

また、この書は、神や仏を中心に書かれています。
神や仏のことには余り詳しくないんだという方々のために、神となった背景や係わった歴史の一場面などが書かれています。

場面は京都ですから観光案内書のような一面も併せ持っています。

また、この本の特徴として情景描写がほとんどありません。
会話が主です。
読まれた方が想像していただければ、それぞれの世界が広がるはずです。
神や仏に決まりきった世界は必要ないと私は考えています。
それでは、真面目だったり、ぶっ飛んでいたり、お転婆だったり、悩みを抱えていたりする神や仏の姿をご覧ください。
そして、それぞれの世界で神や仏と戯れてください。

神社の作法

 ここには私が知る限りの事実や不実が書かれています。
どうか鵜呑みにされませんように。

先々月の終わり頃から梅の香が漂い始めた。
そして先月の中頃、桃の甘い香りがあちらこちらでするようになった。
今年の梅は頑張って生き残っている。
最近では桜の便りもチラホラ聞こえ始めた。
赤・白・ピンクと春の花たちの饗宴が始まる、そんなある日のこと。

「お前は神社に行ったことがあるか? もしあるのなら、そこで何をする?」
そんな問いかけを月様から投げられた。

月様というのは月読命ツクヨミノミコトという神様で、伊勢神宮に住まう天照大神アマテラスオオミカミの弟神であり、八岐大蛇やまたのおろち退治で有名な素戔嗚尊スサノオノミコトの兄神である。

偶然のイタズラか、ひょんなことで知り合い、変てこな神々との集いが度々行われるようになり、今日も今日とて、肝心な話はなく無駄話のオンパレードです。

「もちろん参拝するために行ったことはありますよ。というか、神社で参拝以外にすることなんてあるんですか?」
「散歩とかな」
「散歩途中でも神社に行ったら参拝しますよ」
「昔はもっぱらデートの場だったぞ」
「いつ頃の話ですか?」
「昼でも夜でも近くに遊び場がなかった頃の話だな」
「神社が唯一の遊び場だった?」
「祭りにしろ、縁日にしろ、何かといえば神社に集まったものさ」
「そんな時代もあったんですね。でもそう考えると、今でも僻地の寒村なんかは同じなんじゃないでしょうか?」
「そうかもしれないが、飲食店や飲み屋の一件くらいはあるだろ?」
「集まれる場所が神社だけということですね」
「皆が仲間であり、兄弟であり、親であり、子であった頃の話だよ」

最近、月様は私のことを『お前』と呼ぶ。
今のご時世ではアウトな表現だが、私にとってこれはあまり問題ではない。
それは相手が神であり私は教えを乞う立場だからだ。
しかし、困ったことに何度も会っているうちに、お相手が神様だということを忘れてしまっている自分にハッとさせられることがある。
言葉遣いも少しずつ馴れ馴れしくなってきているようだ。
月様は細かいことには拘らない方なのか、そういうことを注意されたことはないけれど、快くは思っていないのではと考えてしまう。
神からすれば人間の分際でということになりはしないだろうか?
親しき仲にも礼儀ありだ、敬う心も忘れないようにしないと。

「参拝の手順を説明できるか?」
神社には、それこそ数えきれないくらいに何度も行ったことがあるし、参拝の手順くらいは知っているはずだよね。
それが間違っているとすれば、今まで何をしてきたんだということになっちゃうよ。
でも、ちょっとドキドキの説明になりそうだ。

「多分大丈夫ですよ。えーとまず、鳥居を潜る前にお辞儀します」
「何故、鳥居を潜る前にお辞儀する?」
「こんにちはってことじゃないんですか? 或いは、よろしくどうぞってことかな? これから行きますよってことかも? 何か、全部軽いなあ。もう少しちゃんとした理由があると思うんですけど、思い付きません」
「どれも概ね正解だ。ちゃんと説明するとだな、神社は鳥居を境にして内側は神域となっている。つまり鳥居が結界になっているということだ」
「そうですね。それくらいは理解しているつもりですよ」
「本来神域内には立ち入りが許されていないところが多いが、神社は立ち入りが許されている神域でもあるから、敬意をもって神域に入らせていただくことを、一礼という形で表現するってことだな」

結界は見えないから分からないけれど、鳥居を潜った途端に空気が変わったと感じることはありませんか?
最もすべての神社で感じるわけではありませんし、どちらかといえば感じない神社の方が多いと私は思っていますが……。

「続きを聞こうか」
「次は手水舎で手を洗い、左手からだったかな? 次に口を濯ぎます。参道を通り本殿の前に到着。賽銭さいせんを上げ、二礼二拍手して、お願い事をする。最後に一拝でお参りは終了です。どうです、間違っていますか?」
「若干抜けているようだし、参拝後の帰り道が全然ないが、お前は神社にお泊まりするタイプか? だが残念なことにほとんど正解といえるな」
「何が残念なんですか?」
「もっと不正解が多いと思っていたからな。では続けてくれ」
「人のことを何だと思ってるんですか」
「悪い、悪い」
「続きでとなると、本殿で参拝を済ませた後は参道を戻り、最後に鳥居を潜った後で振り返り、一礼して終わり」

「いいだろう。では質問だ。身内に不幸があったとする。その者が鳥居を潜ると不浄となるが、どうする?」
「その人は神社に行ってはダメです」
「ダメってことはないだろ? 神は心が広いのだぞ。ダメになんかすると思うか? それに参拝者が不浄にあたるかどうかなんて近しい者にしか分からん。その場合は自己申告になるが鳥居を潜らず、鳥居の脇を通れば良い」
「アッ、思い出した。私が学生だった頃の話ですから、今から半世紀近く前になるでしょうか。当時の彼女と神社へお参りに行ったことがあったんです。その時、彼女のおばあちゃまが亡くなられて一年も経っていないとかで、彼女は鳥居を潜らずに脇を通ったのを、今、唐突に思い出しました」
「信心深い家の娘さんのようだな」
「それはどうか知りませんが、彼女の名前が元妻の名前と字も同じってのは何なのでしょうね」
「それは奇遇だな」
「そういえば、その彼女には別のエピソードもあります」
「今、聞いた方がいいのかな?」
「いえ、別の機会にします。たぶんその機会は訪れないでしょうけれど」
「遠慮せずに言えばいいぞ」
「大丈夫です。それにしても来る者は作法にさえ則ってくれれば誰でも拒まないというのは合理的ですね」
「ハハ、合理的か。作法に則ってほしいという気持ちはあるが、それすらも個人の自由だ。合理的な部分もないと、参拝という行為もこんなに長くは続かなかっただろうな」
「そんなものですかねえ」

「では次だ。手水舍の行いは何故か?」
「これは知っています。心身を清めるということですね。精進潔斎しょうじんけっさいでしたかね。でも最近では水の出ていないところもありますよ」
「仕方なかろう。コロナ対策の影響だ。それに精進潔斎は仏教用語で、神に対しては斎戒沐浴さいかいもくよくというべきだな」
「それは失礼しました」

因みに精進潔斎は飲酒・肉食をせず、心身を清らかにし仏道修行に専念することで、斎戒沐浴は神仏に対して飲食や行動を慎み、水を浴びることで心身を清めること。
つまり、精進潔斎は仏教のみで使われ、斎戒沐浴は神道・仏教の両方で使われる。

「注意して欲しいのだが、手水舎の溜めてある水で手を洗うのは、まあ問題ないだろうが、口を濯ぐのは止めたほうがいい。流水ならまだしも、このご時世、何が起こるかわからないからリスクは避けるべきだ。手を洗ったり、口を濯いだりという行為は、神に対する禊になるのだが、それよりも、参拝者が清い心でいてくれればそれで良い」
「うーん、やっぱり広い心をお持ちなんですね」

最初に手水舎を作ったのは日光東照宮だといわれている。つまり、江戸時代に入ってからになるな。
それまでは神社などにお参りする時には、川や滝などで洗い清めていた。
それをみそぎという。今ほど簡単には参拝できなかったということだな。
その大変だった禊を簡略化するために手水舎ができ、手を洗い、口を濯ぐだけでいいようになった。
これでようやく簡単に参拝できるようになるわけだな。
現在も三重・伊勢神宮・内宮にある五十鈴川いすずがわには御手洗場みたらしばがあり、川辺で手などを清めることができる。

最近では、コロナ禍の影響で、本来の使用方法とは違う、手水舎などを色とりどりの花で飾る『花手水はなちょうず』が流行はやりつつあるようだ。
発祥は京都・柳谷観音やなぎだにかんのん立願山りゅうがんざん楊谷寺ようこくじだといわれているが、コロナとは関係なく、それ以前から行われているようだ。
境内には五ヶ所もの花手水があり楽しめる。

「では次に行くぞ。参道はどこを通る?」
「真ん中は神様の通り道だから、通るのはダメと聞いたことがあります」
「その話はよく聞くが、それは多分誤解だ。真ん中を通ってはいけないとされるのは、拝殿から本殿の間だけなのだよ」
「そうなんですか?」
「そしてそこには、神社関係者だけで、普通の一般人は立ち入れない」
「何かやっぱり私たちが理解しているのと違いますね」
「普段神はどこにいると思う? 本殿の中だよな。ウロウロしたとしても拝殿までなんだよ」
「その話はちょっと頷けませんね。月様は全然違うじゃないですか、それが正しいとすれば、月様はここにいませんよね? この前の少彦名神にだって会わなかったですし」
「それはそうだな。では、帰るか」
「いやいや、折角来られたのですから、もう少しお話ししましょうよ」
「そうか? そこまでいうなら仕方ないな。もう少し話そう」
「お願いします」
「何故参道まで真ん中を通ってはいけないとなったのかは、よく分からないが、例えば、右側(或いは左側)通行にさせたかったとか、参拝者の行きと帰りで、人々がぶつからないようにしたかったとか、およそその程度ではないのかな」
「そんな単純なことですか?」
「正解は分からないのだから、それでいいじゃないか。姉の住まいである伊勢神宮などは、五十鈴川に掛かる宇治橋(参拝のために通る最初の橋)を渡る時、真ん中を通れないように、少し盛り上げて作られている。これは真ん中の盛り上がりを境に、右の通路と左の通路に分けたと考えた方が納得できないか? そもそも橋の袂の中央に立て札があったはずだ。それなら神すらも通れないということになるだろう?」
「なるほど、伊勢神宮でさえ、しかも神でさえ真ん中を通れなくしてあるということは、通路を右と左に分けたかったというのが正解かもしれないですね」
「もっともらしく理屈を捏ねているが、元を正せば思いのほか単純だったということだな」
「だとすれば、真ん中を盛り上げて作られていると出来ないけど、私は時々敢えて真ん中を歩きますよ」
「どうしてだ?」
「だって、神社に行くってことは、神様に会いに行くってことでしょ?」
「そうだな」
「参道の真ん中を歩くことは神様の真似をしているようで、神様と繋がっているように感じるじゃないですか。自分が神様になったような気にもなれますから」
「考えとしては面白いが、先ほどの話からすると、根本が間違っているということになるな。参道はどこを通ってもいいが、参拝者が混み合っている時は、その流れに逆らうなよ」
「分かりました。でもやっぱり真ん中は神様の通り道だと思って、真ん中を歩くのって気分いいんですけどね」
「実は、参道の正中せいちゅうは神様の通り道だとする考えは広く知れ渡っているから、参拝のマナーとして通るべきではないとしている神社も数多くある」
「ローカルルール的な感じですか?」
「そういうことになるが、無理に波風を立てないとするならば、真ん中を歩くのは避けた方がいいだろうな」
「本殿の前では真ん中に立って参拝していいんですよね?」
「それは問題ない」
「正中は、どこ行っちゃったんですか?」
「どこに行くのだろうな。それは私にも分からんよ」
「緩衝地帯的な感じですかね」
「そう思っておこうか」

順調かどうかは別にして、とにかく本殿前まで来ました。

「賽銭はどれくらいがいいか知っておるか?」
「普通は、ご縁がありますようにって五円とか。他にもいくつか語呂合わせがあるようですね。最近では電子マネーでお賽銭なんていうのもあるようですけど、有り難みはあるんですかねえ?」
「そうだな。便利ではあろうが、有り難みとなるとどうだろうな」
「神様の世界も近代化する必要があるんですかね?」
「近代化は、我々神の世界というよりは、管理・運営してくれている者たちの世界というべきかな」
「神の世界に近代化は必要ないと?」
「本来の形からすると賽銭は神饌しんせんであるべきなんだ。でも近年は神饌を野生動物などに食い荒らされたりするのを神社側が嫌うようになって、賽銭という形に変化していったと考えられているらしい。だが、神饌であっても賽銭であっても、総じて供物くもつや、御供物おそなえものと呼ぶが、基本的に我々神に対する恩恵はほとんどない。よって金額が問題ではない、気持ちが問題なのだ」
「じゃあ、お賽銭はあげなくてもいいんですね?」
「そうではない。何故そう短絡的になる」
「だって、話の流れがそういう展開でしたよ」
やしろの修繕や建て替えに賽銭や寄付が有効ではあるし、なければ神社の存続が危ぶまれることにもなるから必要ではあるのだが……。最近のSNSの傾向を見ていると、賽銭を奮発したのに神は願いを叶えてくれないと、クレームが拡散されるなんてことも起こるかもしれないな。だが、そんな世の中になったら神を辞めたいと思うだろうなあ」
そんな世の中、人間でも辞めたくなるんじゃないかなあ。
でも神様もSNSを気にしているのって面白い。
ところで、神は辞められるのか?

因みに、お賽銭を賽銭箱に投げ入れる行為は、神にとって失礼にあたる。
混んでいる時などは前にいる人に当たることもあるかもしれないので止めよう。

「これが最後の質問だ。礼と拝の違いはわかるか?」
「軽いお辞儀が礼で、深いお辞儀が拝だと思いましたが」
「一般的に『二礼二拍手一拝』とされているようだが、何故最初が礼で最後が拝なんだ?」
「こんにちはで礼、お願い事した後に、よろしくお願いしますで拝。辻褄合いませんか?」
「ずいぶんな言い方だな。まあ軽いお辞儀が礼で、深いお辞儀が拝というのは概ね正解だ。そして今は礼も拝も同様の意味で捉えられている」


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