楽器演奏に全く縁のなかった女がどのようにしてバンドマンになれたのか(前編)
ステージに立ってバンドで演奏する。
スポットライトを浴びてバンドメンバーと共にパートを形成し、一つの曲を創り上げる。
オリジナルかコピーかなんて関係ない。
音楽を好きな人であれば、誰でも一度は憧れるシーンだと思います。
私も長年そうでした。
でも、幼少の頃から大人になるまで楽器演奏に全く縁がなかった私が、「バンドで演奏する」なんて、夢ですらならないことでした。
そのはずが、、
今私は完全100%趣味の、初心者に気が生えた程度とは言え…
細々ながらも、もう10年以上バンド活動を続けています。
長年の1オーディエンスからステージの上へ。
どうやって辿り着いかのか?を細々と記してみようと思います。
楽器演奏に縁がなかった子供時代
小さい頃、教育熱心だった親に言われるがまま、そろばん、習字、公文、水泳…とありとあらゆる習い事をさせられていました。
唯一、自分から習いたいと言い出したのがピアノ、オルガンだったのですが、どんなに親にせがんでも習わせてはくれませんでした。
周りはほとんどピアノを習ってたので、悔しくて仕方ありませんでした。
友達の家に乗り込んでいって、人指し指だけでピアノに触ったりしてました(空しい…^^;)
でも、親に反対された幼少期なんて所詮はここまでが精一杯。
親に言われてイヤイヤピアノ教室に通っている友人を見て、わたしと代わってくれたらいいのにと思ってました。
中学の時になり、ちょっとした機会が訪れました。
意を決してブラバンに体験入部をしたのです。
しかしながら、サックスに触れてみるも、同じ初体験のまわりは皆できてるのに私だけ音すらも出なかったというなんとも辛い状況に…。
やっぱり楽器演奏には縁がないのだと、再度痛感させられたのでした。
高校になって、自分で「音楽」を表現するのはカラオケだけでした。
でも悲しいかな筋金入りの音痴で、自分で音程を外しているのが分かるのに、それを修正することができない。
もどかしい思いを抱えつつも、それでも自分なりに音楽を楽しむ生活でした。
そんな中、親しい友人が突然バンドを始めました。
中学の時ブラバンをしてた経験からドラムができるとのことで。
もう一人の中のいい友人がキーボード兼ボーカルでした。
「一緒にやろうよ!」と誘ってくれて…。
一緒にやりたかったけど、私には何もできない。
ただそばで見てるだけ。
高校の学園祭で、私はステージの下で見てるだけでした。
スポットライトを浴びる友人を見ながら、楽器を演奏するなんていう世界は私にとっては別次元の話なんだとしみじみ実感したのでした。
そして、楽器演奏に対するコンプレックスはますますひどくなるのでした…。
ようやく開かれたライブという場
高校時代はバイトが禁止で、おこずかいの使い道も厳しく決められていたので、ほとんどライブにも行けませんでした。
大学になってある程度自分でお金を貯めれるようになると、ここぞ!とばかりにようやくライブに行けるようになりました。
例え演奏はできなくても、ライブに行くことくらいなら私にもできると。
そして、忘れもしない
1997年4月1日。
エイプリルフールのウソのような、夢のような空間の中に私はいました。
アルバイト先の人に誘われ、生まれて初めてB'zのライブに行ったのです。
初めての本格的なバンド形式のライブでした。
爆音がいつまでも耳に残り…。
記憶は半分以上飛んでいるのですが、ただただ「凄かった」という音圧が体に脳に刻みこまれ…。
音も映像もステージも何もかもが衝撃的すぎて…家に帰った後も興奮して一向に眠れず。
ふと外を見ると空が明るくなっていました。
後にも先にも、ライブの余韻で朝を迎えたのはこの時だけでした。
速攻でファンクラブに入り、次のライブを心待ちにする日々。
ライブのためにアルバイトにも精がでました(笑)
25年前の出会い
そして、この年にもう一人、私のドラム人生?に多大な影響を与える人を知ることになります。
小学校から大学時代まで結構漫画を読んでいたけど、その中の一つに「サイコメトラーEIJI」というのがありました。
ある日、それが実写ドラマ化する、という告知が出て、主演、脇共にジャニーズらしい、と。
当時私はジャニーズ、というか、「アイドル」を毛嫌いしてたところがあり、主演がジャニーズと聞いて少しがっかりした…瞬間、
マガジンの宣伝ページを見てそれは一瞬でかき消されました。
ん?なんかすごい映児のイメージに合うやん?
「松岡 昌宏」っていうのか…。
程なく俳優として心底惹かれるようになりました。
彼が「TOKIO」というジャニーズのグループでバンド活動もしていて、「ドラム」を担当していることを知るのはまだ少し先のお話。
そして、この出会いが私がバンドマンになる大きなきっかけになるとは、その時は露とも思っていなかったのでした…。
「何か」が動きだした「伝説のライブ」
1999年、これまた転機となるライブがありました。
B’z LIVE-GYM ’99
" Brotherhood " 開催
今でもファンの間で「伝説」と語り継がれているライブツアーです。
選曲も音も観客の盛り上がりもすべてが圧巻で…。
そして、もう、ギターの音色に虜でした。
今まで歌詞でしか泣けなかった。
楽譜も読めない、何も楽器を演奏できない。なのに音楽の何を分かってて「好き」といえるのかと。
当時の私は相当に頭が固く、コンプレックスもあって「 音楽を好き」と言えませんでした。
それがすべてこのギターの音色で覆ってしまった。
腰の右側あたりから首筋にかけて、ゾクゾクゾクっと電流が走ったような感覚を今でもはっきりと覚えています。
理屈抜きで「好き」だといえる。
「好き」だから「好き」と言っていいんだと。
心の底からそう思えたのは、これが生まれて初めてのことでした。
そしてこの年はもう一つ…縁があって「TOKIO」のライブに初めて行く機会がありました。 ※この詳細は長くなるので割愛(笑)
松岡昌宏のドラムだけでなく、メンバー、メンバーのパートすべて好きになり…
そしてライブ狂いの生活が始まります。
2000年、就職をきっかけにして上京。
生まれて初めての一人暮らし。
東京という立地も重なって、完璧にタガがはずれてしまいます(笑)
しばらくは夏にB'z、春にTOKIOのライブに通う日々が続き。
1ツアーで平均4,5公演は参戦してました(笑)
「私はこれが好きなんだ!」と胸を張ってライブに通えるのが嬉しくてたまらなかったのです。
止められなかった「溢れる想い」
2004年、TOKIOがCDデビュー10周年を迎えました。
年明けのツアー、秋にデビュー記念ライブと二本立てのライブに全国津々浦々夢中になって参戦しているうちに…
最初ほぼドラムしか見ていなかったのが、ますますメンバー全員大好きになり。
Vo、Key、Gt、Ba、Drの5つのパートを万遍なく感じて。
「グルーヴ感」なんてその時は知りもしなかたはずなのに
音の渦に身を任せてひたすら体を揺らすことが、快感で快感で病みつきになり。
ライブ空間にいることが幸せでたまらなくて。
家に帰っても深夜までHPに書きつづってました。
もうどうにもこうにも、バンドに対する思いがあふれて消化できなくなって。
もうダメだ。
私も「何かしたい」と。
ステージの下で観てるだけじゃなくて、「向こう側」にいきたいと。
いいな楽しいなと観てるだけじゃなくて、自分自身の手で何かを創っていきたいと。
B'zの演奏を聴いてて「すごいな」とは思いつつも、実際に向こう側に行きたいと思うことはなかったのに、なぜかこのバンドでは「向こう側にいきたい」と思わせるものがありました。
でもまわりにはバンドをやってるの知り合いなど一切いないし、何から取りかかっていいのか全く分からない。
唯一目につくのは音楽レッスン。もうそれしかありませんでした。
そして何かに突き動かされるようにレッスンの内容を調べ出します。
そう、最初から何が何でも「ドラム」ではなかったのです。
そこからドラムに行きつくまでの紆余曲折は、、
長くなりましたので後編に続きます。
楽器演奏に全く縁のなかった女がどのようにしてバンドマンになれたのか(後編)|miwa@ちょっとしたことに役に立つかもしれないブログ|note
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