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生産性と効率の向上は人間に「豊かさ」をもたらすか

テクノロジーの恩恵として最も大きなものに「速度」がある。
ここで言う速度とは、地上に存在する2点間を最短の時間と距離で結びつけることだ。

例えば鉄道。
鉄道の価値は、駅と駅の間を最短時間で人や物を運んでくれることにある。
飛行機なら、空港と空港の間。海を越えて大陸間をことが可能になる。
インターネットは光の速度でネットワークに繋がっている人々を一瞬のうちに結び付ける。

僕が子供のころ、こんな話を聞いたことがある。
「ロボットの普及によって、人間の仕事をロボットが代替してくれる。その分人間は余暇が増えて、より人間らしい生活ができるようになる」

今となってはなんとも呑気な話に聞こえるが、テクノロジーの進歩によって、人間の生活がより豊かになると誰もが信じていた時代があった。もしかしたら、現代もそうかもしれない。

とはいえ、現代の方がテクノロジーに危機感を覚える感覚も強いかもしれない。
「AIによって奪われる仕事」というトピックが話題になるくらいだから、テクノロジーが人間を代替することに対して、数十年前の人々ほど楽観的にはなれなくなっている。
テクノロジーによる仕事の代替が、多くの失業者を生みだしてきたことは否定できない。
もちろんその分、多くの新しい仕事を生み出してきた、とも言わないと公平ではないけれども。

とはいえ、テクノロジーの進歩によって豊かになったかと言われれば、マクロで見れば統計数字的には間違いなく豊かになっている。
しかし、豊かさを実感できているかと問われれば、おそらくほとんどの人が実感できていない。

これはなぜだろう。

日本人に一般的な考え方として、どちらかといえば物事を否定的に考えるという傾向にあるとしても(あるいは、例えば「人生に満足していますか?」と問われて、素直に「満足です」と答えるような文化ではないとしても)、
僕たちは、数字で示されるほどの「豊かさ」の実感に、あまりにも乏しい。

主観的に物事を捉えすぎると本質を見誤る、と言ってしまえばそれまでだ。
「あなたは本当は豊かなのですが、あなたがそれに気づいていないだけなのです」
なんだか騙されたような気持になるけど、これはある意味で本質でもある。

でも、やっぱり腑に落ちない。
何かを取りこぼしているような気がする。
いったい僕たちは何を見落としているのだろう。

僕が思うに、それは時間だ。
僕たちにはその「豊かさを感じる時間」がないのではないか。
「豊かさ」がどれほど世界に満ちていても、それを確かに実感し、心から浸り、その源に感謝する時間がないのではないか。

冒頭の話に戻ろう。
テクノロジーは、僕たちの生活に「速度」をもたらした。
人間の身体や足では到底出すことのできない、遥かな速度。
これによって僕たちの生活は劇的に向上した。

「ファーストイズビューティフル」

速いことは良いことだ、これは僕たちの生活を動かす主調低音のようなものになっている。

本屋に入って、ビジネス書関連の本棚を一望してみる。
時間管理、生産性、効率といった仕事術の本が山と積まれている。
こうした本が売れているということだ。というのは、多くのビジネスマンが生産性や効率の向上を至上命題にしているからに他ならない。

より短い時間で、より多くの成果を出すこと。
一言で言ってしまえば、原理はそういうことになる。

生産性と効率の正体は「速度」だ。
時間当たりの生産性は、時間当たりにどれだけの量の作業をこなせるかで測られる。あるいは、時間当たりにどれだけの価値を生み出せるか。
量と価値は時に結び合わないときもあるけれども、速度を否定することだけは出来ないだろう。

テクノロジーと、多くのビジネスマンたちの努力により、生産性と効率は向上し続けている。
時間当たりに可能な仕事が増え、その分多くの利益を出すことができている。
これは素晴らしい進歩だと思う。

だが、ここで立ち止まって考えてみたい。
より多くの仕事がより速く終わるようになった分、残った時間で私たちは何をしているのだろうか?

すなわち「何のために生産性と効率を上げるのか」という問いに、僕たちはどう答えるだろうか。

僕だったら、こう答えるだろう。
「生産性と効率を上げるため」に生産性と効率を上げているのだと。
斜に構えているのではない。
事実を事実として答えようと努めただけだ。

僕たちがやっていることは、「生産性と効率」を上げるために、生産性と効率を上げているように思える。

効率と生産性を上げて、余った時間でさらに仕事をすれば、さらに生産性を上げることができる。生産性が上がれば利益があがる。だからもっと生産性を上げて利益をあげて・・・という、無限ループだ。

ここには、ひとつの罠がある。
その罠は、数字だ。

数字には天井がない。
どこまでも上げることができるし、どこまでも伸ばすことができる。
数値化されないものは評価されず、数字だけが確かな評価の指針となる。

その一方で数字は、これで十分、これ以上は必要ない、ということを教えてはくれない。
数字それ自体が、僕たちを心から満足させてくれることはない。

数字を追い求めれば際限がないのだから、生産性と効率の行きつくところは、天井のない数字をどこまでも追いかけることになるのは、ある意味で必然だ。
目の前にニンジンをぶら下げた馬を笑うことは出来ない。

マクロ統計数値で見れば、僕たちは確かに豊かになっている。
これは事実だけれども、その数値は、僕たちの目の前にぶら下がったニンジンのようなものにすぎない。

どれだけの速度で走っても、常にそれ以上の速度を求められる社会だ。
エンジンはオーバーヒートして、いずれ走るのを辞めてしまう。
世の中はどんどん豊かになっていくけれども、僕たちはどんどん瘦せ細っていく。

生産性と効率の向上は間違いなく「豊かさ」をもたらすけれども、僕たちに「豊かさ」を実感させてくれるのは、生産性と効率ではない。

僕たちはこの無限ループから抜け出すために、どこかのタイミングで「もうこれで十分だ!」と声を上げる必要がある。

もうこれ以上は必要ない。
余った時間は自分のために使うと、勇気を出して宣言する必要が。

では、どこまで行けば満足できるのか。
ひとりひとりにとって異なるその尺度を、社会は絶対に教えてくれない。
僕たちひとりひとりが、自分の尺度を持たなければならない。

では、どうすればその尺度を持つことができるのか。
その作り方を、僕はいま試行錯誤しているのだけれども、
僕たちにはおそらく、誰もが共通の限界がひとつあると考えている。

それは身体の限界だ。
身体を良く知ることが、僕たちが「豊かさ」を感じるための智恵を得ることに繋がるのではないか。

では、どうすれば身体の限界を知ることができるのか。

それは「歩くこと」だというのが、僕の答えだ。
ここから、歩く人の探求が始まる。

「豊かさ」を実感するには、数字に捉われない智恵がいる。
それは特別なものではなく、僕たちが本来持っているもののはずだ。
どこかに置き忘れてしまったなら、取りに戻れば良い。
でも、それはとても小さくて見えにくいから、車や電車の車窓からでは見つけることが出来ないだろう。

歩く人の探求は、この小さくて見えにくい何か、歩く速度でしか捉えられないそれを見つけようとする彷徨いでもある。

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