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登山と遺伝子

2011年3月5日日経新聞夕刊に掲載されたものです。

 先週、順天堂大学大学院博士課程3年目の研究発表をポスター形式で行った。
 所属する加齢制御医学で僕が挑んだテーマは「低酸素化における遺伝子発現」。遺伝子発現とは環境や刺激によってその時に必要な情報を読み取り、肉体に変換される過程をいう。この研究は3年前の三浦雄一郎とのエベレスト遠征と同時に始めたものだ。内容は僕と父を含めた4人の8000㍍峰登頂経験者と高所経験のない被験者が低酸素室に入る前後で白血球の遺伝子がどう変化するかというものだ。

 酸素を媒体として生きている生物にとって低酸素環境は危機的状況の一つだ。酸素が極端に少なくなると細胞は破裂し死滅してしまう。こういう状況から身を守るため、ほとんどの有酸素生物には低酸素誘導因子(HIF)があり、この遺伝子がスイッチオンされ、低酸素に対して様々な防御機構が働く。
 すると赤血球の増加や新たな血管が作られたり、血管を拡張する因子、代謝促進を促す因子など様々な遺伝子の発現が起きる。この中で僕たちが注目したのがヘムオシキシゲナーゼ(HO-1)という赤血球を分解して血管拡張や抗酸化作用を促す酵素だ。

 注目の理由は遺伝子発現的にみると、HO-1は高所登頂経験者が低酸素室に入ると、非高所登山経験者に比べて特異的に抑制されているように見えたからだ。僕の経験上、これはおかしなことである。もし抑制されているのなら、高所経験が豊富であればあるほど、高い山に登ったとき体は酸化して年を取り、酸素を取り込みにくくなる。これでは山に登ることができない。
 このことを疑問に思った僕たちの研究グループは、その後、高所登山を頻繁に行っているガイド5人と同数の登山未経験者の体の中にHO-1がどれくらい含まれているか調べてみた。すると高所登山経験者はそうでないものに比べて、10~30倍のHO-1が体の中に含まれていた。そのため低酸素室で刺激を受けなくてもすでにこの因子は体内に存在しており、すなわち高所登山者は低地に戻ってきても抗酸化作用のある酵素に身体が守られているのだ。

 世界地図が完成されていない時代、探検家は冒険者でもあり研究者でもあった。僕の研究はまだ途上だが、登山を続けながら新たなる未知の世界の発見に期待し、わくわくしている。

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