見出し画像

「胸を張って走れ」第6話 (note創作大賞2024 お仕事小説部門)

第6話(最終話)
 
 10月の大会直前まで、真帆は毎週休まずマラソン教室に通い、週に2回、だいたい5キロずつ走り、余裕のある時は7~8キロ走った。マラソン教室でのブルガリアンスクワットも10月中旬には10回2セットを普通にこなせるようになっていた。最初の頃は20分間走であれほどバテていた静香も、大会1週間前の30分完走では真帆と並ぶぐらいに走れるようになっていた。
 
 そして迎えた10月30日の横浜マラソン当日。
「横浜マラソン2023」と書かれた横断幕が、桜木町駅からメイン会場のパシフィコ横浜まで至るところに掲げられている。
 
 1年前にテレビのニュースで見たのと同じ、横浜マラソンのスタート地点に真帆は立っている。抜けるように真っ青な空に、刷毛ですっと掃いたような白い雲が空に広がっている。暑くもなく寒くもない絶好のマラソン日和だ。
 いよいよ本番。真帆はシューズの紐をもう一度ぎゅっと結び直した。隣にいる静香も緊張した面持ちで足首を回したり、屈伸したりしている。
スタート位置は、エントリーの時に自己申告したタイムに応じてブロックに分けられる。制限時間ギリギリの6時間と申告した真帆と静香は一番後ろのブロックだ。
 ランドマークタワー前の道路はスタートを待つランナーたちで埋め尽くされている。スタート時間の8時半になると、前方で歓声が聞こえ、何やら盛り上がっている様子だが何が起きているか分からない。先頭のブロックはもうスタートしたはずなのだが、真帆の周りは何の動きもない。
 
 30分ほど経って、ブロックの前の方にいる人たちがのろのろと歩き始めた。テレビのマラソン中継で見た、スタートの鉄砲の音と共に選手たちが弾けるようにスタートする光景とはだいぶイメージが違う。
 しかし、5分も経たないうちに集団はばらけて、自分のペースで走れるようになった。
 
 社長っぽい人も、OLっぽい人も、主婦っぽい人も、おじいちゃんもおばあちゃんも、コースの上では誰もが42.195キロ先のゴール目指して一生懸命走っている。完走を目指すひと、サブ4を目指すひと。ペースはそれぞれだ。
中には馬の被り物をしているひとや、股間に白鳥をつけたバレリーナの格好をしているひと、きちんとしたランナーの格好をしているのに、わらじを履いて走っているひともいる。ここには人と比べてどうだとか、人にどう思われるだろうとかいう価値観はない。真帆は今まで縛られていた何かから解き放たれたような気分だった。
 
 隣を走っている静香のペースはけっこう速い。1キロ6分半ぐらいだ。このペースで行くと真帆には速すぎる。
「静香さん、先に行ってくださいね」
「うん、分かった」
 すぐにペースを上げた静香との距離がどんどん開いていく。静香さん、マラソン教室の最初の頃はヘロヘロだったのに、努力したんだな。静香さんは独身だし自分の時間がたくさんあるから…と、一瞬、真帆の頭に薄暗い考えが浮かんだが、「いけない、いけない、人それぞれ」と自分に言い聞かせて淡々と走る。
 マラソンは自分のペースを保つことが大事だ。あれ、これって人生に似てない?などと、まだ余裕があるせいか真帆は走りながらいろんなことを考える。
 
 高速道路が頭上を通る国道をひたすら進んでいく。景色は単調だが10月にしては照りつける太陽を遮ってくれて涼しい。ランニングウォッチを見ると10.6キロと表示されている。ランニングを始めてから初の8キロ越えだ。初めての距離にしては意外と体は疲れていないことに真帆は、
「ちょっとずつでも毎週走っていた効果なのかな」と、ひとりほくそ笑む。
  
 スタートから15キロほどの根岸駅付近では、沿道でたくさんの人たちが頑張れと応援してくれる。
「頑張れ、頑張れ」と、節をつけて手を叩きながら応援しているおばあちゃんや、母親と一緒に「がんばってー」と声援を送る小さな女の子。こんなに応援されるのはいつ以来だろう。子供の頃は運動会で両親が精いっぱい応援してくれた。でも、大人になってからは仕事も家事も人付き合いも出来て当たり前。誰も応援してくれないし褒めてもくれない。人に応援されるってこんなに嬉しいものなんだ。
 真帆は沿道の人の応援に答えて心の底から「ありがとう」と手を振る。
普段、人見知りな性格の真帆にはなかなかできないことが、今日は自然にそんな風にふるまえることに真帆は自分でも驚いた。みんなに「ありがとう」と言うと自分も元気が出るのが不思議だ。
 
 シーサイドラインの南部市場駅付近の20キロ地点を折り返す。
 そこまでは順調だった真帆だが、折り返し地点を過ぎたあたりで急に左脚の膝に痛みが出てきた。最初はぼんやりとした違和感程度だったのだが、一度気になると、どんどん痛みの輪郭がはっきりしてきた。
 
 そういえば大会直前のマラソン教室で四宮コーチがこんなアドバイスをしてくれたっけ。と真帆は思い出した。
「走っていると、脚とか腰とかいろんなところが痛くなりますが、ぜんぶ気のせいですから!気のせい気のせいと思ってると、そのうち痛みはどっかへ行きます!」
 その言葉を聞いた時は「そんなバカな」と思っていたが、「気のせい、気のせい」と自分に言い聞かせてみると、本当にいつの間にかそのうち痛みが消えていった。気持ちの力は大きい。
 
 折り返し地点からしばらくすると首都高速湾岸線の入り口が見えてきた。入り口は急な坂になっているので、20キロ走ってきた脚にとっては登るだけでもキツい。真帆は体力温存のためにここは歩くことにした。真帆の周りの参加者たちも歩いている人が多い。
 普段は車しか通れない高速道路を走るのは不思議な気分だった。高い所を走る高速道路なので見晴らしがいい。右手にはジオラマのような工場地帯の風景、頭上には真っ青な大きな空が広がっている。
 非日常的な場所を走っているという浮かれた気持ちは最初だけで、だんだん疲労が体にこたえたきた。車で高速道路を走っている時は気づかないが、ゆるいアップダウンがあって地味に足腰にくる。だんだん脚が上がらなくなってきた。
 
 30キロ地点と書かれた立て看板を過ぎたところで左脚のふくらはぎがひきつるような感じがした。真帆は嫌な予感がした。脚の違和感はだんだん強くなってきた。脚をひきずりながらも真帆はなんとか救護センターのテントにたどり着いた。
「痛っ!いたたた…」
 ちょうど救護センターに着いたところで激痛に襲われて動けなくなった。やっぱり自分にはフルマラソンなんて無理だったんだ。だって今までに8キロまでしか走ったことないのに、いきなり42.195キロなんて走れるわけがない。私っていつも中途半端なことしかできない…。
 そんなことを考えていたら真帆は涙が出てきた。
 
「大丈夫ですか?!」と、ボランティアの女子学生が駆け寄ってきてくれた。テントの中に入ると、手際よく真帆の靴と靴下を脱がせてくれる。
「脚をゆっくり曲げ伸ばししますよ」
「いててて…」
「痛いと思いますけど、ちょっと頑張ってくださいね。深呼吸してください」
 深呼吸を繰り返すと真帆の気持ちも落ち着いてきた。
「脚がつるのは水分不足も原因なんですよね」と、経口補水液を手渡してくれる。マッサージを受けているうちに痛みは収まってきた。真帆が話を聞くと、彼女はスポーツ医療を学んでいるという。
「やっぱりフルマラソンなんて余裕で走れちゃうんですよね?」
「いえ、走るのめちゃくちゃニガテなんですよ。フルマラソンなんて走る人、本当に尊敬しちゃいます」
 彼女は照れくさそうに笑った。
「頑張ってくださいね!」と背中を押され、真帆のしおれかけていた心は、まるできれいな泉の水を飲んだように力を取り戻した。
  救護テントの外にある給水所では水やスポーツドリンクの他にバナナを配っていた。「脚がつった時にはバナナが良い」と何かの記事に書いてあったことを真帆は思いだした。バナナをほおばり、隣に置いてあった塩飴を2個ポケットに入れて再びゴールを目指す。

 あと10キロちょっと。
 そこから真帆は自分の体の声を聞いてこまめに水分や糖分を補給するようにした。
「そういえばこんなに自分の体と向き合ったことはずいぶん長いことなかったなあ…」
 いつも家族が優先の生活。子供が熱を出せばすぐ病院に連れていき、夫が風邪を引けばおかゆをつくる。もともと体が丈夫なせいか、「倒れるわけにはいかない」と気を張っているせいか、ふだん真帆が具合が悪くなることはほとんどない。思い返せば、健康診断も独身の頃に会社で受けて以来、10年ぐらい受けていない。もっと自分を大切にしよう、と真帆はあらためて思った。
  塩飴を口に放り込むと、不思議なことに力が湧いてくる。自分の体に手をかけてあげているという喜びを感じる。自分の体がいとおしい。
 よくやってるよ自分。よく頑張ってるよ。
 心の中でそう自分をねぎらうと涙が出そうになった。疲れすぎて情緒がおかしくなっているのかもしれない。遠くにランドマークタワーが見える。
 
 胸を張って。
 マラソン教室でコーチが言っていた言葉を思い出す。
 
 給水所では地元の高校生のボランティアが選手のために一生懸命コップに水やスポーツドリンクをくんでくれる。
「頑張ってください!」と声をかけてくれる彼らとハイタッチをすると限界寸前まで疲れきった体の奥底から力が湧いてくる。
 
 高速を降りて横浜港シンボルタワーの近くで折り返し、マリンタワー前にさしかかる。右手に山下公園が見える。往路でここを通ったはずだが昨日のことのように感じる。
 あと2キロ。
 40キロも走れた自分はもう往路の自分とは違う。
 私は透明人間なんかじゃない、自分の力でこうしてフルマラソンを走れるようになったじゃないか。
 外で働いていないことに劣等感を持っていたけれど、専業主婦だって立派な仕事だ。胸を張っていい。でも、外で働きたいならまたチャレンジすればいい。一度、働くことをあきらめた自分は脱落者だと無意識に思っていた。今まで外に出ることに臆病になっていた。不器用でキャパの狭い自分にはまた外で働くなんて無理だと思っていた。
 でも、マラソンだって最初は絶対に無理だと思っていたのにこうして走りきれた。自分に制限をかけていたのは自分。私は何だって出来るんだ。
 
 赤レンガ倉庫前を抜けて女神橋を渡る。ゴールはもう目の前だ。
「真帆ちゃん、頑張って!」
 声の方を見ると、橋の入り口のところで静香が声援を送ってくれていた。
静香さんも自分の力でゴールを勝ち取ったんだね。
 胸を張って。
 ゴールはもう目の前だ。女神橋が新しい世界への架け橋のような気がした。
                               (完)

第1話はこちらからどうぞ。

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?