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さようなら、こんにちはと深海魚

【意味】
「さようなら」は「左様であるなら(お別れです)」
「こんにちは」は「今日は(ご機嫌いかがですか?)」



私は小さい頃なかなか「さようなら」が言えなかった。小学校の時、一緒に帰る友達に「またね」「じゃあね」は言えても「さようなら」が言えない。「う」が抜けて「さよなら」も言えない。この響きにどうしようもできない気持ちが湧き上がり、それが泉のごとく溢れ出てくるように、心が大きく揺れ動いていた。

一旦家に入ればそんな揺れ動きはなかったように本を読んだり、ピアノを弾いたり、音楽を聴いたり、家族とおやつを食べながらおしゃべりしたり、後回しにしたい宿題のことを考えたりして、友達のことも学校のこともすっかり忘れるのにも関わらず、だ。

友だちと別れる時、お稽古事に行って先生のところから帰る時、楽しい時間を過ごした後にそれぞれ家に向かう直前の「さようなら」の時間。どうしてこの時間が終わってしまうんだろう。なんでみんなそんなに明るくいられるんだろう。ニコニコしてるんだろう。
私は「さようなら」の後に続く「お別れです」を感じたくなかったし、聞きたくなかった。本当にそうだった。
なんなのだろう。自分の何代も前の存在が大切なものと引き裂かれたことがあるのか?とか。

この言葉が言えなかった私が「さようなら」という言葉に「今日はお別れだけど、また会えますように」という小さな決意を持って言えるようになったのはある程度の大人になってからだ。
一回づつ区切りをつけていくことによって「当たり前ではない良いこと」を実感させるためなのだろう。さようならって言った方が潔さが自分に生まれる。「よし、次の時間だ」って思える。

だから「さようなら」は「こんにちは」に必ず手を伸ばす。不意に、予期しない偶然にストンと着地する。そうやって日々、潔く章が移っていくのだ。

ふと、そのようにしながら歳を重ねるって大切なことを自分の中にある深い海に沈めていくような作業だなと思った。奥深いマリワナ海溝みたいなところは深海魚しか知らないけど、深海魚は変な音波みたいのを出して海全体をピリピリ繊細に震わしてる。それが生物に影響を与えたり、穏やかな海流になったり、激しい波になったりしながらもダイナミックな動きを作って海を豊かにする、という想像。

深海魚、いい位置にいる(笑)。

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