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1952年のヒロシマと青森県黒石市の少女

飯口昭子と峠三吉

1952年、峠三吉は『詩集 原子雲の下より』発行のため作品募集を呼びかけた。「おねがい」と題されたその文章の中に、青森県黒石市小学校四年生の飯口昭子さんの詩が一編用いられている。原爆投下から7年後の広島市にどのようにして黒石市の女の子の詩が届いたのか気になった。わかってきたことは、児童文学作家の鈴木喜代春(1925-2016)が関係しているということ。鈴木氏は田舎館生まれで青森師範学校を卒業し、県内の小中学校の教諭を務めた。そして1952年に青森県黒石小学校四年生の生活記録をまとめた文集『みつばちの子』を編集し刊行した。その中に空襲が激しくなった東京から家族と共に黒石に疎開した飯口昭子さんの「わたしの家がほしい」という文章がある。232頁の文集の中に反戦の詩も掲載されている。飯口さんの詩はないが生徒全員に書かせたらしい。「おねがい」の詩はその中の一つではないだろうか。文集が発行される一年前に弘前のかくはデパートで丸木位里・赤松俊子による「原爆の図」全国巡回展(1951.6/16-18)が開催されている。文集にある子ども達の広島原爆に対する詩や文章はこの展覧会によるものではないのかと思う。では文集に掲載されていなかった飯口さんの詩がどのような経路で峠三吉に辿り着いたのか?「原爆の詩編纂委員会」、「赤松俊子」、「山代巴」、1951年10月出版、長田新編『原爆の子』など調べるつもりだ。

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