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繋がる。1952年黒石ー広島

1951年、前年黒石小学校に赴任していた26歳の鈴木喜代春は朝鮮戦争勃発にかりたてられ、当時担任していた4年5組の生徒にソフニ書店でみつけた長田新編『原爆の子』を二日、三日と読み聞かせをした。

そして戦争についての話し合いを広げ作文や詩を全員に書いてもらった。それらは10月29日発行の学級文集「みつばちの子」4号「戦争と平和」に掲載された。その頃、作文教育が全国的に展開され「学級文集」「学校文集」の交換が行われていてこの号も全国に送られた。すると大きな反響を呼び多くの雑誌、新聞に取り上げられることになる。その反面「注入主義だ」という激しい批判も晒されることになる。鈴木喜代春著「子どもとともに 私の教育実践史」に、その頃支えてくれた多くの人達の名前の筆頭に長田新の名前がある。「みつばちの子」4号は長田氏にも届いていたと思われる。

1952年5月28日、35歳の峠三吉は原爆の詩編纂委員会を結成。2か月前に新日本文学全国大会出席のための上京中に列車内で喀血し入院していた静岡日赤病院を退院して直ぐだった。その詩集への作品募集の「おねがい」(6月1日付)に青森県黒石小学校4年生飯口昭子の詩が掲載されている。「みつばちの子」4号に掲載されていたものである。その前日の5月31日付で峠三吉による「原爆に関する詩集の編纂について」と題されたA4版横4枚の中の「三、原稿の蒐集」の5-ハとして「長田氏に協力を求める」とある。その長田氏は翌年の退官をひかえ広島大学の学長の位置にいた。

広島大学仏文科には新日本文学会広島支部の事務担当をしていた21歳の川手健がいた。そしてその後「原爆の詩編纂委員会」に集まった学生詩人の中でも編纂の中心的役割をはたした。のちに川手氏は「原爆被害者の会」事務局長を務めることになる。峠三吉のもとに集まった学生または本人が長田氏を訪れ協力を求め「みつばちの子」に掲載された詩を紹介されたと考えるのは極自然なことと思われる。その年の9月1日『詩集 原子雲の下より』(青木書店)発行。また同月、峠三吉は長田新「原爆の子」を原作とした映画「ひろしま」(関川秀雄監督)の現地協力委員になっている。

追記 峠三吉は翌年肺葉切除手術途中、3月10日未明死亡。川手健は1960年東京都の深川の小さな旅館で自死。峠三吉36歳、川手健29歳の若さだった。

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