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「悪魔」とは何か Ⅱ

 Ⅱからお読み下さっている方へ。
 
 通信社の記事は「砂漠の井戸堀り」スタイルが前提となっています。ですが、苦労して掘っても水脈に辿り付かない場合もあるので、そこは何分(なにぶん)お許し下さい。できるだけわかりやすくとは思うのですが、荒筆故、留意読破を宜しくお願い致します。
 それでは『「悪魔」とは何か Ⅰ』の続きです。

 では、なぜ、人はその悪魔に対して、今ハッキリとした認識を持つ事が出来ないのであろうか。何故人は悪魔の定義付けが曖昧で苦手なのであろうか。そもそも悪魔の存在に対して何故、人は漠然としていて、抽象的なのであろうか。
 実は、これも、実在する「悪魔の策略」であると考える事は唐突であろうか。

 悪魔の一番の策略、これは悪魔が企ている策略のひとつでもあるが、
「自己存在の否定」
 つまり雲隠れ。

 悪魔は自分の存在を煙にまいている。
 対外的に
「自分(悪魔)は存在しない」
と言う悪魔自らの策略。

悪魔の現実的存在。
「それは、無知な人間の妄想である」
「それは愚かな人間の罪悪感の象徴である」と、
人に思い込ませている、と言う、悪魔の手法。

 それに騙されると、人の悪は、すべて人間である自分や他人のせいであり、自分や人間や、人間が引き起こした悪い結果でしかなく、結局人は、人である自分や他人だけを責める事になる。

 悪魔はいない、すべて悪い事が起こるのは「人が原因」である。あるいは、人が無知で弱くて病的で病気だから悪い結果を人間が自ら刈り取っている。
 
 人にそう思い込ませている悪魔は、人の背後にひたすら潜み佇み、自分の姿を明るみにする光ある表への露出を嫌う。つまり悪魔は闇での暗躍者、陰謀者として存在している。

 もちろん、悪魔が、人のすべての意思や行動を操作しているわけではないが、少なくとも、悪事のきっかけを作っているのは悪魔であり、悪魔はその人間同士を仲たがいさせ、自分は指1本たりとも手を出さない。
 悪魔は誘う(いざなう)者であり、訴える者であり、それによって人が勝手に苦しみ、のたうち回るのを傍観する者。悪魔は他者の苦しみの傍観者。渦中に入って来たり、表立って自分を表明する事はしない。そもそも悪魔は、何事にも他者の為、責任を取る意思や心を持てない。

 このように、悪魔は、誘(いざな)いにより、きっかけを作り、人間に引き金を絞らせた後、身を隠し、その悪影響を受ける人間が、自分で自分を責め、他人を責め、人々が独り苦しむ事態を興味深く眺めている。
 
 悪魔は人間を壊す為、人の中にある誤解をさらに捻じ曲げ、更に人の弱みにつけ込み、個人を壊すだけでなく、人間同士お互いの間での「誤解」をも用い、その関係をも壊す。人と人、民族と民族、国と国を、仲たがいさせている。

 時折、悪い物事の発端として表現される言葉に「悪魔のささやき」「悪魔の誘惑」等があるが、私達を悪へ誘う働きは今も続けられ、人を誘惑した後、悪魔自身は何事も無かったかの様に、人の痛みと苦しみを暗闇の中で狡猾に楽しむ。悪魔が悪魔と言われる由縁(ゆえん)である。

 悪魔は絶対的な人の敵として「闇」からの活動を止めない。悪魔は身を潜め暗躍し、人を自分の居場所である暗闇に引きずり込もうとしている。悪魔は、人には見えないだけに、人からの対処、対応が不可能であり、人は悪魔の思う壺。

 そして人は、その悪魔から過大な影響を受けているにも関わらず、悪魔に対して何の意識を持つ事も出来ていない。悪魔は、人をあらゆる点で凌駕しており、人よりはるかに力が有り、優秀で、非常に悪賢いのである。人は、その悪魔の存在を知る事が出来ない程、悪魔にしてやられている。だから人は「悪魔は存在しない」と思い込んでいる。いや、思い込まされていると言う方が正確なのかもしれない。

人がもし「悪魔はいない」と考える事でもあるなら、その事、事態が「悪魔の存在」を定義づける確かな証拠だと言える。

 人や世の中における「悪魔」の直向きな働きは、人の歴史が始まって
以来、途切れる事無く最初から現代に到まで行われ続けている。

 次は、悪魔が人に存在をひた隠している確定的ひとつの重大な理由について考えてみたいと思う。

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