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「カバーポップス黄金時代」原曲との聴き比べ① 「サンライト・ツイスト」「悲しき願い」他全13曲

外国のヒット曲に日本語の歌詞を付けて日本人が歌うカバーポップスはジャズを中心に戦前からありましたが、盛んになったのは1960年前後から。    その前史としての1950年代は、主流だった歌謡曲に比べると洋楽系の歌手の数も少なくマーケットも小さいものでしたが、それでも歌謡曲に飽き足りない耳の肥えた音楽ファンから一定の支持を受けていました。

1950年代半ばになると、アメリカでロカビリーがブームになったことを受けて日本でもそれを英語で歌う歌手が表れ、ジャズ喫茶を中心に少しずつ人気が出始めました。1958年の第1回「日劇ウェスタンカーニバル」に平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスの所謂「ロカビリー三人男」が出演するに及んでその人気に火が付き、1950年末から60年代初頭にかけて熱狂的なロカビリーブームが巻き起こ起こりました。

何百本もの紙テープが乱れ飛び、髪を振り乱し絶叫してステージに押し寄せる若い女性たちの狂乱ぶりが社会現象として大きな話題になりました。ステージに上がって来て歌手に無理やり抱き着いたり、足を掴んで客席に引きずり降ろしたりと、もうやりたい放題の大騒ぎ。これに比べればGSブームの時の観客のほうがずっとマナーが良かったように思えます。少なくとも直撃したら痛い紙テープは飛んでいませんでしたからね。

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日本のロカビリー歌手が歌っていたのは、アメリカ直輸入のプレスリー、チャック・ベリー、リトル・リチャード、ビル・ヘイリー&コメッツ、ポール・アンカなどのロックンロール。それまでの歌謡曲やジャズ、カントリー&ウエスタンとは全く異なる初体験の激しいリズムや強烈なビートに当時の若者たちがしびれてノックアウトされたことは想像に難くありません。

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ロカビリーブーム自体は後のGSブームと同様に僅か数年で下火になってしまいますが、これに目を付けたのが1959年、日本初の近代的芸能プロダクションとなる渡辺プロを設立した渡辺晋・美佐夫妻。そもそも第1回「日劇ウェスタンカーニバル」をプロモートしたのは渡辺美沙本人だったのですから、目の付け所が違います。俄かに巻き起こった空前のロカビリーブームを見て、ポピュラー音楽の可能性(要するに金になる)を確信したはずです。

平尾昌晃は逃したものの、早速、ミッキー・カーチス、山下敬二郎と所属契約。ザ・ピーナッツ、後のスパーク三人娘(中尾ミエ・伊藤ゆかり・園まり)、尾藤イサオ、布施明、藤木孝、梓みちよ、木の実ナナ、スリーファンキーズ、ジャッキー吉川とブルー・コメッツ(初期は主にバックバンドとして活動)など、洋楽ポップスを歌える歌手たちを集めました。

同時に、まだ黎明期でコンテンツの少なかったテレビ局にナベプロが企画した音楽番組(「シャボン玉ホリデー」「ザ・ヒットパレード」など)を売り込み、ザ・ピーナッツやハナ肇とクレージーキャッツなどの所属タレントを次々に出演させて知名度を高めました。レコード会社は勿論、映画会社やラジオ局、「平凡」「明星」などの芸能雑誌などにも攻勢をかけ、今で言うメディアミックス戦略を展開。一時は芸能界を席巻するほどの勢いで他社の追随を許さず、「ナベプロ帝国」と呼ばれるほどした。

まだ洋楽系の曲を作れる作詞作曲家が少なく、手っ取り早くレコード化するため主にアメリカでヒットしていた曲に日本語の歌詞を付けて所属歌手に歌わせる所謂カバーポップスが量産されるようになりました。

大ヒット曲(「バナナ・ボート」「ヴァケイション」「月影のナポリ」「可愛いベイビー」など)はそれほど多くはなかったものの、安定的な売れ行きを示して歌謡曲と人気を二分。若者音楽の新たなジャンルを開拓することに成功しました。この動きを見て他のプロダクションも続々参入。1960年代前半には後に「カバーポップスの時代」と言われる黄金期を迎えることになります。

当時の訳詞家として忘れてはならないのが新興音楽出版社社長で音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の初代編集長漣健児(2代目編集長が星加ルミ子)。本業の傍ら、何と400曲以上の訳詞(超訳も多い)を手がけました。他にも日本初のオリジナル・フォークソングと言われるマイク真木の「バラが咲いた」の原盤を制作するなど、音楽業界で活躍しました。

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カバーポップスの時代は割合長く続き、その隆盛が陰りを見せ始めるのは1960年代中盤あたりから。その頃になると、アメリカの音楽界を席巻したブリティッシュ・インベージョンの波が日本にも及び始めていました。

決定打になったのは、ベンチャーズによるエレキブームと来日公演をきっかけに巻き起こったビートルズ旋風。これに刺激を受けた若者たちが、演奏と歌を自前でこなすスタイルがかっこいいとアマチュア・ロックバンドを続々と結成し始めました。この新たな動きに目を付けた芸能プロとレコード会社が彼らを続々とプロデビューさせ、そが後のGSブームに繋がって行くことになります。

この辺の経緯とGSブームについてはこちらに書いています。

ロックという新しい音楽の流入によって、従来のカバーポップスは曲の内容も演奏スタイルも古いとみなされて人気も急激に下降。最終的には1960年代後半のGSブームでその全盛時代は終焉を迎えます。しかし、全く消滅してしまった訳ではなく、数は少ないものの1970年代以降も息長く作られ続けました。

全体的に見るとカバーポップスは名曲というよりは迷曲の宝庫なので、そのまま並べても今聴くとトホホな曲のオンパレードになってしまいかねません。そこで、カバーポップスと原曲を聴き比べてみるという趣向にしてみました。両者を対比して聴くことでカバーの名曲(迷曲)度合いや原曲のよさがより鮮明になるという効果も期待できるかもしれません。

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今回は1回目なので、カバーポップスの名曲を揃えてみました。

                                  安蘭けい「ブル-ジーンと革ジャンパー」

安蘭けいは、元宝塚星組男役トップスター。この曲は1999年の公演「The Wonder Three」の挿入曲。「ブル-ジーンと革ジャンパー」は数多くのカバーがありますが、さすがは宝塚で歌と振り付けがびったり合っており、表現力も豊かです。静と動の切り替えも鮮やかで見事。アダモと比べて聴いても遜色ない独自の世界を作り上げています。冒頭からカバーポップスの範疇からは少々外れて恐縮ですが、ライブとしての出来が素晴らしいので。

尾藤イサオ「ブルージーンと革ジャンパー」

カバーポップスと言えば、尾藤イサオは外せませんね。レコードデビューは1964年と少し遅かったものの、「匕首マッキー」(マック・ザ・ナイフ)を皮切りにカバー曲を数多くリリースして、カバーポップス時代の終盤を支えました。                                芸能界キャリア最初期には浪曲家の弟子をしていたというのもびっくりですが、歌唱中に時々「うなり」か入るのはその時代の名残でしょうか。                   「ブルージーン~」は慣れないフランス語で原曲に忠実に歌っていますが、年季が入っており安定した迫力のある歌唱力で聴かせます。

アダモ「ブル-ジーンと革ジャンパー」

アダモってフランスの人かと思っていたら、ベルギー人だったのですね。シチリア島生まれだそうですが、ルーツはベルギーのフランス語圏なのかもしれません。これが2枚目のシングルで、多分アダモが最もロックに近づいた曲だと思います。

木の実ナナ「太陽の下の18才」

木の実ナナは、梓みちよと共に女性カバー歌手の中では抜群の歌唱力の持ち主。ライブでも安心して聴いていられます。できればフルバージョンで聴きたかったですね。本国同様、日本でも大ヒット。かなり長期に渡って、沢山のカバーがリリースされています。題名もレコード会社によってバラバラで統一されていません、映画そのままの「太陽の下の18才」から「ゴーカート・ツイスト」「サンライト・ツイスト」「恋のゴーカート」など様々です。

小山ルミ「恋のサンライト・ツイスト」

木の実ナナのバージョンとは歌詞が異なります。            小山ルミは1968年に映画『ケメ子の歌』のケメ子役でデビュー。エキゾチックな容貌で、1960年代末から1970年代まで映画、ドラマ、歌番組などで大活躍しました。この曲の他にもエレキインスト曲「さすらいのギター」、「二つのギター」「マイアミ・ビーチ・ルンバ」などをカバーしています。

ジャンニ・モランディ「サンライト・ツイスト」(原題Go-Kart Twist)

カトリーヌ・スパーク主演のイタリア映画『太陽の下の18才』(1963)の挿入歌。本国ではジミー・フォンタナが歌う主題歌とのカプリングでこちらはB面でしたが、映画と共に大ヒットしました。作曲は後にマカロニ・ウェスタンの主題曲で有名になったエンニオ・モリコーネというのがひとつの驚き。当時は世界的なツイスト・ブームの真っ最中で、劇中でもみんなツイストを踊っています。勿論マイナー調ですが、カラッと明るく湿っぽさを全く感じさせない軽快な曲調です。ベースがとてもよい仕事をしていますね。

ほりまさゆき「風に泣いてる」

今となってはすっかり忘れ去られてしまった感のあるほりまさゆき。ネットの情報も少なく、テレビの勝ち抜き歌番組に出たところ、その歌唱力がレコード会社の目に留まり、キングレコードから歌手デビューしたとか、寺内タケシ&ブルージーンズの初代ヴォーカルだったこと位しか分かりません。当時のブルージーンズはインストバンドではなく、ロカビリーをやっていたので、ほりまさゆきがレパートリーからに見てロカビリー歌手だったことは間違いないでしょう。                        なかなかうまく歌っていますが、原曲に比べてドラマチックさが不足していて、失恋の哀しみや切なさがあまり胸に迫ってこない印象があります。

ポール・アンカ「風に泣いてる」

こちらも本国では5枚目のシングル「LOVE」のB面扱いですが、日本ではA面として発売。AB両面ともポール・アンカの自作です。ほりの他に鈴木ヤスシもカバーを出していますが、あまりヒットしませんでした。

ポール・アンカの泣き節がたっぷり堪能できる隠れた名曲だと思います。ほりまさゆき盤と比べると明らかにサウンドが分厚くB面の制作にも潤沢におカネをかけていることが分かります。強調されている小気味よいドラムスと吹きすさぶ風(語り手の悲痛な思い)を巧みに表現しているバックの女性コーラスも聴きどころ。

尾藤イサオ「淋しいだけじゃない」

尾藤イサオの歌唱力は男性カバー歌手の中では随一と言っても過言ではないでしょう。この曲でも彼の持ち味がいかんなく発揮されており、なかなか聴きごたえがあります。バック演奏は、ブルーコメッツ。

クリフ・リチャード&シャドウズ「淋しいだけじゃない」

シャドウズの抜群の演奏力が聴けるので、バックの音にも注目(注耳?)してください。特に終盤、かすかに聞こえるトレモロ奏法が素晴らしいです。  「ヤング、ワン」や「サマーホリディ」、「レッツ・メイク・ア・メモリー」「ラッキーリプップス」「オン・ザ・ビーチ」「しあわせの朝」など多くのヒット曲をもつクリフ・リチャードは、その甘いマスクで日本でも高い人気がありました。初期にはポップス路線の他にロックぽい曲も歌っており、この曲や「ダイナマイト」「ムーブ・イット」などがその代表曲。

尾藤イサオ「悲しき願い」

尾藤イサオと言えばこの曲は絶対に外せないですね。「あしたのジョー」と並ぶ彼の代表作。割合若い頃の映像で、髪が長いですね。バックが寺内タケシ&ブルージーンズ、コーラスがスリーファンキーズとなかなか豪華です。レコードのB面が、何とデイブ・クラーク・ファイブの「シンキング・オブ・ユー・ベイビー」なのもびっくりです。

アニマルズ「悲しき願い」

アニマルズ6枚目のシングル。全米チャートでは15位止まりでしたが、日本では大ヒット。セールス的には「朝日の当たる家」よりも売れたはずです。哀愁を帯びた曲調にぴったりの邦題もよかったのでしょう。日本人は「悲しき○○」というのが大好きですから。                 大ヒットを受けて1965年6月に初来日。スパイダースを引き連れてコンサートを行いました。ただし、来日直前にサウンド面の要だったキーボードのアラン・プライスが脱退してデイブ・ローベリーに交代。来日後にはエリック・バードン以外のメンバーも抜けてしまい、この時点でオリジナル・アニマルズは空中分解してしまいました。                  その後、アラン・プライスはアラン・プライス・セットを結成して「I Put a Spell on You」をヒットさせます。エリック・バードンもメンバーを集めてエリック・バードン&ジ・アニマルズを再始動、主にアメリカで活動しました。

スパイダース 「ダイナマイト」

スパイダースがこの曲をボーカルなしのインスト曲にしたのは、正解だったと思います。本家と比較されなくて済みますからね。

クリフ・リチャード&シャドウズ「ダイナマイト」

シンプル且つキレッキレのロックンロール曲。シャドウズの演奏にも聞き惚れます。

青山ミチ「恋はスバヤク」

生まれたのは1949年で、日本はまだ連合軍の占領下。父は日本に進駐していたアメリカ兵。大ヒット曲はありませんが、パンチのある歌唱力で人気がありました。このカバーも原曲にひけをとらない堂々とした歌いっぷりです。Wikiには、1966年に新曲発売が予定されていましたが、本人が覚醒剤所持で逮捕されてお蔵入り。その曲をGSのヴィレッジ・シンガーズが「亜麻色の髪の乙女」と改題して出したところ、大ヒットしたという何とも皮肉なエピソードが掲載されています。青山ミチ「亜麻色~」もぜひ聴いてみたかったですねえ。

ガス・バッカス「恋はスバヤク」

本人はアメリカ人ですが、ドイツで活動している時期に録音したのがこの曲。ドイツでは不発で、日本だけでヒットしました。ガス・バッカスはその後も鳴かず飛ばずだったので、これが唯一のヒット曲ということになります。途中の笑い声が耳に残りますが、最後まで聴いてもサビらしいサビが見当たらない珍しい曲です。一時期、ビートルズより多くのリクエストがラジオ局に殺到したという伝説がありますが、大ヒットしたことは事実です。子どもの頃、「ガス・バッカスガス大爆発!」と早口言葉でふざけていたことを覚えていますから。

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