装丁物語 和田誠 中公文庫

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振り返ってみると、本については文字通りの「ジャケ買い」というのはほぼしたことがない。好きな著者の本の装丁が素敵だった、ということはあるし、本屋さんでパッと見て「あ、この本は面白そう」「気になる」と思うことも、よくある。
だが、全く見ず知らずの著者の本を、装丁だけで買った、という記憶はない。

和田誠『装丁物語』(中公文庫)を書店で手にとって、パラパラとページをめくっていると、見覚えのある書影が何点も出てきて、「え、これって和田さんの装丁だったの?!」と驚いた。

『花の脇役』、ちくま文庫の「古典落語」シリーズ、 『ユリシーズ』『パパラギ』『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』『狐狸庵VSマンボウ』丸谷才一のあれこれ、そして、文春文庫のマーサ・グライムズのシリーズ。

読んだことのある本、手元にある本、書店で見て印象に残っている本、様々だけれど、これらの本の装丁が、全て和田誠の手になるものだとは、大きな驚きだった。俄然、この本への興味が湧いてきた。

ゲラを読んでて面白くなっちゃうことがよくあるので、そういう時は一所懸命読みます。そこで思うのは、「ああこの本は出来上がってから落ち着いて読みたかったなあ。でも装丁を引き受けちゃったから今こうしてゲラで読んでるけど、引き受けなきゃよかった。そしたら本屋さんで買ってじっくり読んで楽しめるのに」なんてことですが、一方で「こんないい本、人が装丁してたらくやしかっただろうな、俺に頼んでくれてよかった」と思ったりもします。

自分でも数々の著作を持つ和田誠は、著者としてだけでなく、本を作る側の気持ちも、本を読む人の気持ちも、体に染み込んでいたのが、この一文に表れている。

また、イラストレーターとしてだけでなく、装丁家、グラッフィック・デザイナーとしての誇りも強く持っていた人だったのだな、ということを初めて知った。
それが端的に表れていると感じたのが「バーコードについて」の章だ。

(書籍のバーコードが)便利なもの、ということはもちろんぼくにもよくわかっているんです。でも便利が美しいもの、面白いもの、洒落たものを犠牲にしていいのか、それがぼくの根本的な疑問なんですね。
本は著者も編集者も装丁家も宣伝部も販売部も含めてそれを作る送り手のすべてと、受け手である読者のものです。その一部である装丁もそうです。まちがっちゃいけない。

装丁家として「一所懸命」に「いいものを美しく装う、という当たり前のこと」をやってきた和田誠は、バーコードという実用一本やりのものによって、カヴァーを汚されることに抵抗した。

さらに、バーコード導入に至るプロセスが、図書設計家協会にも、現場の編集者も知らないうちに、「デザインや絵に関心を払わなかった人がデザインに関する重大問題の決定権を持ってしまった」ということに驚いている。そして、走り出してしまったからもう止められない、と既成事実を盾にそのまま物事が進んでいく。(なんか、最近もこういう話、よく聞くような…)

その後、「担当者と話しながら譲り合いの方向を探っている」中で、所定の位置に、はがせるシールに印刷したバーコードを貼る、トレーシングペーパーをかけてその上にバーコードを刷る、オビだけに刷る、といったアイディアが生まれているという。

和田誠によって仕込まれた様々な装丁の工夫を知ると、実際に手にとってみたい! 読んでみたい! という本がどんどん増えていく。そして、これまで装丁にあまり関心を向けてこなかったことを、激しく後悔している。

これからは、怖めず臆せず「ジャケ買い」もしてみよう、と思っている。

ちなみに。
昨夜、ずっと積ん読になっていたコミック『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記(3)』を読もうと、シュリンクを破ったら、バーコードはシュリンク側にシールで貼り付けられていて、本体のカヴァーには印刷されていなかった。コミックだからできたことなのかもしれないが、タイミングの良さに、思わず「えっ!?」と声が出てしまった(笑)

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