古都再見 葉室麟 新潮文庫

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葉室麟という作家の名前は折に触れて目にしていた。
直木賞を『蜩ノ記』で受賞した頃、あまり時代小説、というよりエンタテインメントを読まなくなっていたので、書店で見かけても手に取ることはなかった。
小説には手が伸びなかったけれど、「幕が降りるその前に見るべきものは、やはりみておきたい」と京都に居を移した歴史作家が、古都を歩き綴った随筆という『古都再見』の紹介を目にして、読んでみたくなった。

京都にまつわる、へぇ〜と思うような話が紹介される。
例えば、
上七軒の始まりは、北野天満宮の社殿修築で余った材木を用いて建てられた七軒の茶店を建てたのが始まり(「吉野太夫」)
鑑真の弟子の鑑禎が、鞍馬山に白馬の幻を見て訪れ、鞍馬寺を開いた。「鞍馬天狗」が白馬にまたがって現れるのも、このあたりから来ているのかもしれない(「鞍馬天狗」)
大石内蔵助が実際に遊んだのは、伏見の撞木町だった(「大石内蔵助の『狐火』」)
京の遊里として名高い島原はいわば俗称で、正式な地名は「西新屋敷」である(「島原縁起」)
オランダ商館の医師、ケンペルが江戸へ参府した帰り、後に赤穂浪士によって討たれる吉良上野介と、四日市ですれ違っていたことが、ケンペルが残した克明な記録からわかっている(「孝明天皇の外国人嫌い」)
などなど。
素敵な余録だ。

著者の歴史作家が見ようとしたたものは、有名無名を問わず、歴史のできごとを通して、人々がその時何を考え、どう生きたか、ということだ。
例えば。
井上章一のベストセラー『京都ぎらい』を読んだ著者は、

自らが打ち負かした者の祟りを恐れ、魂鎮めの寺社を立てるという敗者へのおびえは中世まではあったが、その後、薄れていったという。
特に明治維新後の政府は自分たちが亡した政敵の鎮魂に努めていないことが指摘されている。
これは、目からウロコだった。
明治政府が成立するまでに戊辰戦争で会津や越後長岡などで戦果が広がり、多くの人命が失われた。
このようなとき、かつての政権は滅ぼした敵の怨霊を鎮めるために神社を建て、祀ってきたのだ。
ところが明治以降、祀られるのは靖国神社のように政権のために亡くなったひとばかりだ。
西南戦争を起こして政権への反逆者となった西郷隆盛が靖国神社へ祀られないのは、不思議に思っていたが、考えてみると、上野公園の銅像は西郷さんが祟らないように建てられたのかもしれない。
(中略)
(銅像を除幕式で初めて見た、西郷隆盛の妻)糸子夫人が言いたかったのは、実際の西郷が浴衣姿で人前に出るような無作法な人物ではなかったということなのだろう。
なにはともあれ、政府への反逆者であった西郷を立派な軍服姿にするわけにはいかなかったのだ。
だとすると、西郷の怨霊をなだめる意味合いも中途半端なものだったと言える。あるいは違う意図だったのか。
それだけに軍服ではない親しみやすい西郷像が国民的な人気を永く保ったことの意味は大きい。
西郷は時空を超えて権力者の側ではなく、庶民の側に立つことになったからだ。
それにしても祟らないで欲しいと亡した敵を祀る国家と、政権に従い、命までも捧げた者だけを祀る国家とでは大きく違う。
怨霊を信じることは迷信なのかもしれないが、敵を斬り捨てて顧みない近代の合理的な非情さよりは人間らしく思える。
一方で、それは、ひとの不幸のうえに自分の幸福は成り立っているのかもしれない、と反省する気持でもあるだろう。
もし、歴史の上で敗者に対して勝者がそのような気持を持てない、とするならば、世界は勝者の楽園のままで、永遠に和解は訪れないことになる。
そんなことも『京都ぎらい』を読んで感じた。
「『京都ぎらい』を読む」

三筋町から新しい場所への移転にまつわるドタバタと、四年前に起きた島原の乱を結びつけて、新しい遊郭の町を「島原」と呼ぶようになった、と言われていることに、不自然さを感じた著者は、歴史をひもとく。
すると、島原の乱で討ち死にした、板倉重昌に関係があるのではないか?ということに気づく。
板倉重昌は、時の京都所司代・板倉重宗の弟。三代将軍家光に重用され、幕府の征討軍の総大将に任命された。
しかし、一揆勢の激しい抵抗に遭い原城を落とすことができない重昌は、後任の総大将が到着する前に決着をつけようと、自ら先頭にたって総攻撃をかけ、戦死してしまった。

幕府軍の総大将が討ち死にしたという衝撃的な報せは、当然、京都のひとびとにも伝わったはずだ。

そして討ち死にしたのは、京都所司代板倉重宗の弟なのだ、ということも知ったに違いない。新たに移転した傾城町を島原といった京のひとびとは意地悪だったのだろうか。それとも京都所司代がつぶそうとしても、容易くはつぶれない、という意味で島原と呼んだのか。
当時の京でひとびとが傾城町を、
━島原
と呼んだのは、反体制的で不穏な気配を込めていたのかもしれない。
(島原縁起)

『古都再見』は、「薪能」という随筆から始まっている。
平安神宮で行われた薪能で「小鍛冶」を見た著者は、先輩小説家の山本兼一氏のことを思い出す。京都生まれ、京都育ちの山本氏が、刀工を主人公とした作品をいくつも発表していたからだろう、という。
そして、作家としては遅いスタートを同じ頃に切り、ともに直木賞候補となった北重人氏のことも。
しかし、二人とも道半ばにして倒れ、一人取り残された、という思いが著者の胸に去来する。
その時、京を逃れて一騎駆けした武将・木曾義仲、その義仲を好んだ松尾芭蕉へと思いはめぐる。
最後を締めくくるのは、「義仲寺」。木曾義仲の墓が、さらに松尾芭蕉が自分の墓所にと望んだ、滋賀県大津市にある寺。著者がここを訪れたのは、大先輩の作家・伊藤桂一氏の「お別れの会」に出席するためだ。
木曽義仲に始まり、木曽義仲に終わる。
これが、書き下ろしではなく、週刊誌の連載でのことなのだ。
なんと、みごとな幕引きだろう。

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