上方落語ノート 第三集 桂米朝 岩波現代文庫

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昨年、青蛙房から出ていた元本の第一集と第三集をゾッキで入手した。
例によって積ん読しているうちに、岩波現代文庫化が決定してしまった(汗)。
元本と比べてみたが、巻頭グラビアも、本文中の資料写真なども全て文庫版にも入っている。
文庫版にはカバーに米朝さんの写真が使われていて、解説(第三集は廓正子氏)がついている、というのが違いだ。とはいえ、文庫本好きなので、結局ダブりを承知で、全巻購入(第四集は、今月中旬刊行予定)。

上方落語については、知識がないので、内容についていけるか?と不安に思いつつ読み始めた、第一集。知らない人名、知らない用語、もたくさんあって、一度読んだだけではなかなか歯が立たないな、と思った。ただ、上方歌舞伎との関連についての言及も多いので、それなりに興味深く読むこともできた。

今回取り上げた『上方落語ノート 第三集』にも芝居や能狂言、日本舞踊といった、私にも馴染みのある芸能の話がたびたび登場する。名前しか知らない、あるいは名前すら知らない上方の芸人さんの想い出話「先輩諸師のこと」も、米朝さんの見事な筆さばきと、そこで紹介される芸人たちの人となりの面白さが相まって楽しく読み進んだ。

序で、「満六十六歳になったところで、同年の笑福亭松之助君と共に、上方落語界の最高年齢−−−ということになってしま」ったという記述は「絶滅の危機」と言われていた戦後の上方落語の実情を端的に表している。

「コトバ、それからそれへ」では、普段何気なく使っている言葉について「え、そうなんだ!?」と驚く。
例えば、「羽蟻」は「ハアリ」、「他人事」は「ひとごと」であったはずが今では「ハネアリ」「たにんごと」が普通になってしまった、と。ちなみに「他人事」は、わたしも「ひとごと」だと思うが…。

一番驚いたのは、

「鳥たち」「虫たち」「蛙たち」などという言い方も気になる。童話の世界か何かならともかく、今は一般にこの「たち」が使われている。古来、スズメや蜂や蟻などには、普通、複数形は使われなかったように思う。しいて使わねばならない時は「ども」であったか。
「たち」というのは非常に高い敬意を示す言葉で、「神たち」「君たち」−−−平家の公達も「きみたち」である。「皆様方」「殿方」などの「かた」より「たち」の方が一段上であった。

「○○たち」が、単に複数を表す時に使う接尾語だと思っていた。高い敬意を示す言葉だったとは…。ちなみに、大辞林を引いてみると

「ども」「ら」のような見下した感じはないが、「かた」ほどの敵意はなく、普通、尊敬すべき人にはつけない

ということで、「かた」と「たち」は逆転しているのも、時代とともに言葉が変化していく端的な例となっているのに驚く。
そして上に引いた一文に続く、大正時代のある女子大の卒業式のエピソードには、さらに驚く。
敬語の使い方で、人物を微妙に使い分ける好例として「たちぎれ線香」の番頭の言葉の使い分けを解説している。
東京では「たちきり」として演じる噺家さんも増えているので、なんども聞いたことがある噺だ。
米朝さんが「前半の山場は、”てにをは”ひとつ、無思慮に扱ってはならないところ」という。さらに後半のポイントを紹介したあと、

そこまで配慮して口演しても、時として、お客に伝わらないこともあろうし、今のお客には早いテンポで運んだ方が良い場合もある。
もっとあらい演出で、短時間にトントンと運んでいっても、ポイントだけはキチンと抑えていけば、何しろ作品がよくできているから、一応の感動は与えられるだろう。
しかし、先人が腐心して工夫を積みあげてきた作品を、そう気軽に扱うのは冒涜であるとする思いは、私には生涯消えない。

と述べている。米朝さんが聞き覚えただけで「たちぎれ線香」を高座にかけてしまったとき、師匠・米團治は叱るのではなく「なぜ、そんなことをしてはいけないのか」を教え諭してくれたという。

このバカバカしい落語という芸に、懸命にさまざまな工夫をこらした先人の情熱−−−愚かさ、といって良いのかもしれないが、それを、「良いなぁ」と思い「嬉しいなぁ」と感じる気持ちが生じたればこそ、私は落語家になったのである。

こういう話を知ると、私も「落語っていいなぁ」と思い、ますます落語が好きになる。

「不易と流行」の中では、

落語会は随分多く開かれているが、一部の人、世の中全体から見ると、ほんの一部のお客が対象である。私は昔から、落語という芸はそんな芸なので、それでも良いのだという考えであるから、そのこと自体には驚かないが、その一部の人、その大事な落語ファンすら失うのではないかという危機感はいつも抱いている。四十年以上に渉って、この危機感が消えたことは一度もない。
話芸−−−喋って人を楽しませる芸の原点に帰って考えようということである。落語中心の寄席というものを、何十年も前に失った関西の落語家は、自覚する、せぬに拘らず、それをやって来た。やらざるを得なかった。落語という芸の持っている約束ごとのようなものを、しばしば放棄せざるを得なかった。
落語と呼べるかどうかは問題ではなく、喋ってきく人を楽しませるという、原点に立って商売をして来たのである。現在の私は、おかげさまでわりと良い条件(会場、環境、雰囲気等)の下で落語を喋る機会に恵まれている。
しかし、若い連中はもがき喘ぎながら、昔の私のように、もがいては考え、喘いでは工夫しながら、どんな状況の下ででも喋っているのである。何かをつかむ者も出てくるに違いない。私の危機感は一向に去らないけれども、絶望はしていない。

新型コロナ禍で、これまでのような形での寄席や落語会の開催はできなくなっている今、落語はまさに苦境に立たされている。しかし、その中でも自分たちの芸をどうやったらお客に届けられるか、を試行錯誤している芸人も少なからずいる。ライブ配信といっても、さまざまなシステムがあり、そこでどういうネタをかけるか、単独で行うのか、仲間と行うのか、寄席の番組をそのままに配信するのか、有料・無料、あらゆる可能性が試されている。きっかけは何であれ、その芸を伝えようとした人々の試行錯誤の結果、芸能は生き延びてきた。米朝さんのいう「原点」さえ見失わなければ、落語はこの危機を乗り越えていくだろう。

このタイミングでこの一連のシリーズが刊行されたのは、米朝さんからの贈り物なのかもしれない。


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