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Reality:卒論とカスの社会学

卒論終わりません。オワタ。もう留年してしまいたいです。

──────さて、今回の話をするにあたって私がこのような状況に陥っているのはご理解頂けただろうか。話を次に進めよう。


なんとも非社会的なダラけた大学生の私だが、愉快なことに専門は社会学である。弊学で人間社会について学ぼうとすると、「個人化」というキーワードを嫌でも知る羽目になる。
「個人化」と聞くとずいぶん難しそうな話だが、要は「私らしく生きる」という話だ。個人の自由とも言う。

これは奥深くややこしい話だが、例えば学生服なんかはまだイメージしやすいだろう。「女子は女子らしくスカートを履きなさい」とするより、スカートかスラックスを選べるように変化したことは、社会的な役割よりも個人の自由を尊重する風潮が広がった結果のひとつなのだ。

眠くなるような話はさておき、ここで大事なのは「選ぶということは自分の意思が必要」ということ、そして「どんな意思であっても尊重されるべき」という考えが大切なことだ。休日の出かける時のファッションは自分で決めねばならないし、相手のお気に入りのファッションを否定してはならない。なるほど簡単だ。

そして最も大事なのが、その選択が明らかに悪手であっても否定しない事。不登校であることを、仕事をサボることを、夜更かしをすることを、相手がそう選択したならば。私はそれを否定してはならない。否定は相手への不理解と受け取られかねないから。関係がそこで途切れてしまうから。
Realityという、リアルから切り離さされた配信アプリの中での私と周りの関係はより強くこの傾向にある。顔もよく知らない相手のことなど滅多に否定するものではない。強く否定する時なんて、己の信条を傷つけられたり、危険なトラブルに巻き込まれそうな時くらいだろうか。

……しかしですよ皆さん。本題はここからですよ??
どうにも、どうにもですね、わたしが卒論サボってる時だけはなんか違うんですよねェ〜〜〜!!!なんでや〜〜〜!!!!!
授業サボった時はそういう日もあるよねで終わるのに卒論できない進まないって言った時は「卒論だけは頑張れ」って何ですか!?でも本気で心配してくれてありがとう!!!!!😭

決して10人中10人が私を諭そうとするのではなく、中にはそれも構わないだろう等と言ってくる人間もいる。
私は常々「どんな物事にも限度がある」と言っているが、良くない行いを肯定する限度というものの平均値、中央値が卒論にはあるらしい。実に愉快で不思議な話だ。生死に直結しそうな健康、不摂生ですら人の自由だと言ってその不摂生に目をつぶる風潮がはびこっているのに、それじゃ死んじゃうよというような食生活や睡眠リズムにはケチを付けることは失礼であるかのようなのに、卒論はどうも違うらしい。

この微妙な差にこそ、今の私の生きる社会の価値観のものさしが隠れているような気がしてならないのだ。この差を生む様々な要因を紐解く作業。ものさしを見る目を持つ教養、これだから社会学は面白い。こんなしょうもない己の人生からも面白さを抽出できる。まさしく、カスの社会学という訳だ。

さて、このままでは社会学的見解という文化的な豊かさと引き換えに留年という社会的な豊かさ(地位)を失ってしまう。どう転ぶかは私次第!

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