世の中にはまだ新しい映画が存在する
過日、新しい企画の打ち合わせの席で悲しくなるような事実を聞く。
近年、私の作品では撮影、照明、録音などのパートで大学生のインターンを採用している。
助手の助手というような立場だが完成した映画にはちゃんとエンドロールに名前が載る。
が、彼等は映画館にその名前を確認しに来ないのだという。
送り出した大学側がチケットを渡してやっと観に行くのだという。
一般の大学ではない。映画を学ぶ芸術大学、でだ。
単位がもらえさえすればそれで「過ぎた事」なのか。
映画館に自分の名前の載った映画がかかる。
映画を愛する者にとっては何と晴れがましい一瞬である事だろう。
それを目指して果たせない人もごまんといるのだ。
実際、スタッフの殆どは自分の仕事に誇りを持ち、エンドロールの自分の名前の位置にこだわる。
自己顕示欲の多寡ではなく、情熱の希薄さには驚きよりも悲しさを覚えた。
「イマドキ」の典型ではなくたまたまそういう人達だったのかも知れない事を願うものの、薄々絶望的だとも思う。
そんな中Netflixで「消えた16ミリフィルム」(2018)を観た。
原題はShirkers (逃げる者たち)。
シンガポールの、映画を創りたくて創りたくて仕方がない三人の少女達。
彼女らを指導する芸術学校の担任講師ジョージが監督する自主制作映画にスタッフとして参加する三人。そのうちの一人サンディ・タンは担任に才能を認められて脚本を書く。
彼女達の在らん限りの情熱をぶつけたフィルムは、ジョージに持ち去られ以後行方不明となる。
二十数年後、ジョージの遺族から送られて来た未編集のフィルムを繋ぎ、更にかつての仲間達を訪ねてインタビューするサンディ・タン。
そこで明らかにされた幾つかの事実。
ああ、世界にはまだこんな「新しい映画」があるのだと鳥肌が立つ程感動した。
瑞々しいフィルムの中の永遠の青春。
タイムカプセルが「失われたはずのフィルム」だなんて、なんて映画的なんだろう。
シンガポール特有の熱帯雨林のグリーンとプラナカン由来の鮮やかな色彩。
好きな映画への真摯なオマージュ、稚気溢れる女のコらしさ。
衒いのない言葉でぶつかり合う仲間達。
サンディ・タンの縦横無尽な映像パッチワークはゴダールの「気狂いピエロ」を彷彿とさせる。
若さ故の傑作。
此岸の「イマドキ」への愚痴を垂れ流してるようじゃダメだな俺も。
サンディ・タンから背中にケリを入れられた気分になった。
さて、新しい映画をつくろう。
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