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2019 古事記の傳へを終えて


昨年末、約10ヶ月におよび練習してきた、古事記の傳への公演を終えて、

それぞれが、また日常へと戻っていきました。


冬至を迎え、気がつけば年末。

子どもたちは冬休みに入り、大掃除に正月の準備へと母たちはバタバタとして現実を過ごしていました。

その中でも、あのときの古事記の傳への体験は、
今でも私たちの中で生き続けている、そんな気がしています。



新しい年が明け、

今回の体験をことばにしたいとずっと思っていましたが、

遠い昔のような気がしたり、思いというものがあまり浮かんでこなかったり、

不思議な感じです。



確かにあれだけ大和ことばを毎日のように声に出し、すぐそばにあったのに。。


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ともに出演したメンバーのひとりに久々にあっても、同じような感想で。


これは、なんなんだろうと話していたのですが、

大和ことば、日本の神話、こういった私たちの国のことばや物語は、

私たち日本人にとって自然すぎて、

ただただ、当たり前のことをやったにすぎないのではないか。

当たり前のこと、それは 例えば 息をすってはくとか、ご飯をたべるとか、それくらいの当たり前のこと。


だから、透き通った水を飲むかのように、私たちの心、体、精神に染み渡っていったのかもしれない、と思うのです。

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2年前のキリスト生誕劇は、光と闇が際立つ物語でした。

それに対し、昨年の古事記の傳へは、日本の自然、風土の豊かさが見せてくれた 色鮮やかな世界。

繰り返される季節の移り変わりの中で、四季折々の恵をいただき、大いなる存在に感謝する。

私たち日本人が大切にしてきた、八百万な神々たちの物語。


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それは、無意識の中にわたしたち日本の自然や風土からもたらされたもの、そこに畏敬の念をもち、人間の力の及ばぬ大いなる存在に守られてきたことを、ことばと体をとして思い起こさせてくれました。


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そのような演劇を「言語造形」で取り組んだということ意味。

私たちは言語造形を通して、「ことば」そのものに出会ってきました。

それは、「音の響き」であったり、「呼吸」であったり。


言語造形は「本当のことば」、「ことばの精神」といったものに出会いに行くことだと思います。

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それは、一体どこにあるのか。


私たち一人ひとりの中の深い深いところにあります。


それは、ことばの精神の源泉。


私たちは、仲間とともにことばと向き合い、響かせ合い、聴き合い、

その源泉へと降りていき、ことばの精神を汲み取っている。



「わたし」が、その都度、新しく生きるために。


今回そんな気がしてなりませんでした。


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わたしたちは、この言語造形を学ぶ演劇塾に「ことばの泉」という名前をつけました。


それは、たまたまだったかもしれません。


でも、きっと「ことばの泉」はそうあるべき場所だったのだと思います。


さて、次はどんな物語を紡いでいくのでしょう?

今年も、自分自身の奥底にある 「ことばの泉」に 

ともに歩みゆく仲間と出会えることを 楽しみにしています!



文:momo

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