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そんなドラマチックさはいらない

2023年9月6日。
昨日夫のお別れ式をして、今日葬儀を終えた。
雨の予報だったけれどさすが晴れ男、昨日は晴れだったし、今日もパラついたのみで雨は降らず、火葬後には青空が見えていた。
たしかnoteに途中までなにかツラツラ書いていたなと思い出して見てみたら、1年前だった。
読み返したら、涙が出た。もしかしたらまた、書き足すかもしれない。
この頃は2歳にもなっていなかった娘は、もう2歳10ヶ月。11ヶ月目前だ。ペラペラなんでも話せるし、ご飯も幼児食でなんでも食べられる。
「パパ、しんじゃった。だから、おわかれなの。見えない姿でとんでるかなあ?ゆづきちゃーん、ワンピースかわいいね〜っておどってるかも」なんて、よくわかってよく喋る。死についての全ては分かってないだろうけれど。
せめて、せめて3歳の誕生日、七五三を一緒に祝いたかった。
貧乏性なので、せっかくだし初めて投稿してみることにした。こんなこともあったなあと思い出したいときに、読み返そうと思う。
ずっと忘れたくないから、入院中にたくさん出した手紙も適当に2つだけ手元に残した。
今ごろ、あまりにも久しい自由に動く体で、大好きなチョコパイでも食べて、お義母さんとのんびりしている気がする。
たくさん頑張りきったね、お疲れさま。ありがとう。大好きでした。


胸の内の大きな波を少しでも鎮められるように、もっと前向きになれるように、少しでも落ち着けるように、どんなことがあっても忘れないように、まるで祈るような気持ちで、私は暗い寝室で小さな灯りをほんのりつけ、すやすや眠る小さなかわいい娘の横で静かに携帯を打っている。

2022年6月30日木曜日、夫が肺ガンだと速報で伝えられた。
なぜ速報なのかは、6月28日にすでにもしかしたら結核か、もっと悪いかもと医師に伝えられており、検査の結果待ちだったのだが、その結果前に肺が痛むと電話して病院に向かった所、そう宣告されたからだ。
夫から初めて伝えられたのはLINEだった。
“電話じゃなくてごめん、泣いてしまいそうで”そんな言葉が添えられていた。
ちょうど娘のお昼ご飯を食べさせているタイミングだった。私は思わず動転して、えっ、えっ…?と声がでた。ドッドッドッと効果音が文字で出て来そうなほど心臓が暴れ、手も震え、思わず反射的に「どうしよう」と言葉が続いた。次いで「ぱぱ、ぱぱ、肺ガンだって…」とわあんと娘に泣きながら抱きついてしまった。
娘はご飯を食べるのをやめ、心配そうな不安そうなキョトンとした顔で私を見つめていた。そこでハッとした。娘を不安にさせてどうする、私がしっかりしなければと、すぐさま笑顔でごめんねと謝り、大丈夫、大丈夫よと繰り返す。自分にも言い聞かせるように。

夫の帰りを待つのが、異常に長く感じられた。まだかね、まだかねと話す。
娘が床に躓きぺチャッと転んだ際に声をかけつつ頭を撫でたら、「ままてってこわいねえ、ぱぱだけ」。ママの気分じゃないパパがいい、との娘の発言にさえ面白いなあと笑いながら涙がでそうだった。

帰宅した彼に、おかえりなさいお疲れ様!まさかだねって普通に話す。そう、一番ショックや不安を抱えてるのは夫なのだから、支えなければと強く感じた。
「待合室で二人のことを考えてたら涙が出てきてさ、人もいるし一人になれる場所探したけどどこもなくて、無理矢理買った紅茶なんだ」
無造作に置かれた夫の好きな午後の紅茶無糖のペットボトル。そのペットボトルごと抱きしめたい気持ちだったけれど、まだステージなどは後日精密検査ののちにわかるとのことで、しなかった。希望を持つためにも、今はまだしたくなかった。

娘がぱぱーといつも通り抱きつく。ぐりぐりぐりと言いながら、腕に頭を擦り付けて、笑いながら「ぐりぐりした」
ああどうしてなの神様。こんな時ばかり神様に話したり祈ったりしてしまう。長くお墓参りに行けていないお婆ちゃんにだって、お願いしますと、私と娘には彼が必要なのだと頼んだりして。なんにだって縋りたい思いだ。

一昨日の夜だったろうか、二人で話していたのは。「相当悪くて結核かもだって。でも自分で調べてたら肺ガンかもって」夫が言った。
とはいえ最悪でも結核だろうし、すぐ治るでしょ。でもさ、もしものことがあったらさ、娘のことも大事にしてくれる人と幸せになってね。みったちゃんに近づくな!とかならないからさ。
そんなのいやだよ、一緒に娘ちゃんが大きくなるのみて、老後だって私とのんびり過ごすんだよ!あと娘が大きくなって手出されたりとかも心配だし…。そんなこと言わないの!
そんな話をしていた。
まさか、まさかこんなことがあろうとは。

私はようやく産後のあらゆる不安定さが落ち着いてきたのかな、と自分で感じていて、ふっと、洗い物をしているときに”夫がいてくれるだけでいいんだよなあ、娘と三人で過ごせてたら…“なんて改めて胸に広がったりした。これからは今までよりもっと色んなことを伝えて、より良く生活していけそうだなあ。そんな風に考えていたのだ。

これまでは慣れない初めての育児に、肉体的にもだが、どこかどうしても 自分ばかりやっている。自分ばかり大変。自分ばかり…という気持ちが膨れ上がることが多々あり、どこか夫のことを大切にしきれていなかったように思う。しかし夫は仕事の疲れも凄まじい中、家事もお互い協力し、休日には育児だってしてくれている。
「どうしてこんなことになったんだろ。もう忙しすぎて病みそうな時、死んじゃってもいいかなとか思ったからかな」それを聞いた時、私はほとほと彼のことをしっかりと見つめられていなかったんだな、そんな後悔に全身がのまれかけた。
そんなこと考えたの、娘のことと私のことでいっぱいいっぱいすぎてそこまでだったの知らなくてごめん、どうしてそんなこと思うの?泥水を頭から被ったかのような、ショックと小さな怒り。自分と、夫に対してどっちもだ。

夫の体調がすぐれなくなったのは、おそらく2ヶ月ほど前だろうか。正確には覚えていない。
目の焦点があわなくなったり、視界がかけたり、それが起こると激しい頭痛がきて何もできなくなる。寝るしかすべがなくなるほどの症状だ。
それに加えて、日々何かしらの不調を聞いた。
胸の辺りがつかえる感じ、たまの空咳、だるさ、時折発熱、吐き気、顔色が著しく青白いことだってあった。
私は総合病院をすすめて、夫は受診しに行った。MRIもとったが異常はなしで、偏頭痛との結果だった。けれど帰ってきた夫から話を聞けば、気持ち悪さや視界のことも話したが触れられず、胸のことは夫が自己判断で話さなかったと言っていたか、そこも定かではないが、私はなんで?と思った記憶がぼんやりあるので、おそらく自己判断で言わなかったのだろう。しかしそんな診断結果でその時はおわった。
そうして諸症状の治らない日々で、胸の治らなさが長すぎない?内科で診てもらったら?と何度か言った。けれど治ったりするから、仕事が忙しくて…そんなこんなで病院に行かなかった。
私は徐々に純粋に心配できなくなっていた。夫がダウンしてしまう土日も含めてほぼワンオペでこなす日々の中で、毎日不調を伝えられて病院へ行ってくれないのが、正直ストレスになっていた。
そう過ぎていき、夫が数日高熱をだした。さすがにもう病気に行ってほしいと、私が微熱を出した際に発熱コールセンターから聞いていた病院を教えた。

どうだったかなと気にしながら待っていると、町医者で終わると思っていた診療は、総合緊急医療センターの呼吸器専門の先生に診てもらうことになったとLINEがきた。肺に白くモヤがかかっていたらしい。
いざ行ってみれば肺に水が溜まっていて、1Lも水を抜いた。これが原因の咳だったそうだ。けれどまだ水は残っているらしい。夫は抜いた水を見せられたけど、うっすら血混じりでさ、と話していた。
そして告げられたのは肺炎で、もしかすると結核。しかも結構酷い、とのことだった。

結核?!と驚いて調べていると、早期なら治りやすいが、重度だと命にも関わるとでてくる。不安もよぎる。
けど大丈夫大丈夫、治るし原因わかってよかったね、などと話した。重くないといいな、早く治るといいなと願いながら。
けれど、その願いは叶わなかった。

当たり前の日常ほど、ありがたくて幸せで、なにものにも代え難い。よくそう思う。
元気にみんなでおはようが言えたら一つの奇跡だ。
道端の野草が綺麗に咲いているだけでハッピーだなと感じるし、空が綺麗だねと三人で眺める時間や、何気ない会話や、夫と娘が戯れ合う光景。そこにある日々にこそ、いろんな幸せや大変さやかけがえのなさが詰まりすぎている。
けれど常にそのありがたみを意識できず、つい当たり前のようにそれらを享受して、大事にしきれなかったりする。
それがさらにまざまざと突きつけられた。
どうして夫なんだろう。もっと極悪人とかいるじゃん、まだ娘も1歳8ヶ月で、パパがいなかったら「ぱぱ、きてほしー」て言ったりして、私のこれからの人生にだって彼はずっとそばにいてほしいのに。前向きに、治ることだけ考えて、私は明るくいつも通り振る舞って、夫が挫けないように支えたい。そう頑張ると決めているが、そんなこともよぎった。
だって、私と彼は娘の入学式で写真を撮って、夫はいつも通りの棒立ちで、娘がなにこのポーズって笑ったり、娘が成人した後に赤ちゃんのころの動画とかのんびり見てしみじみしたりとか、そんな未来を想像していた。楽しそうに追いかけっこする親子を見て俺たちもああやって遊ぶかねーって話してた。
こういった苦しみや悲しさに耐えている人はたくさん世の中にはいるんだもんなあ、そんなこともぼんやり浮かんで、一人で泣いた。
ふとした時に彼の鼻と目が赤くなるのを見るたびに、大丈夫だよと鼓舞する。

精密検査は7月の4日だ。結果は5日の火曜日。二人で治るよ、軽くても重くても、一緒に頑張ろう。何度もそう話す。
しかし検査までの土日で夫の容態は確実に悪化していた。手と足の痺れ、片足に力が入らないという。土日でも緊急で検査して、治療を始めるならはやく始めたいよねと気持ちが急く。だって命に関わるのに、蝕まれるのを待ってるだけなんて、とても怖い。

最悪のことまでお互い覚悟しなきゃねと、余命宣告されたらさ、と切り出した。
辛いだろうけど、でも少しでも長く一緒にいられるように頑張ろう?と伝えると、彼は言い渋った。まだ約束できない。だって、保険金もそこまで降りないのに、お金だけかけていなくなるかもしれない。そうまでして生きてる意味があるかな。
そうなのだ、私たちはちょうど母にたのんで夫の保険を見直してもらったていた。少し安くして、県民共済と掛け持ち。資料を見比べてみると、手厚さが段違いだった。
ああ、なんでこんなタイミングで。冷蔵庫も壊れるし、診断結果の日の私の夢は娘がどこかに行ってしまう内容で、さらに戸袋に娘の手を挟ませてしまって病院に行ったりして、厄日でしかない。

でもお金はどうにかなるよ、けど確かに治療は辛いだろうから当事者じゃない私がそれを強いることはできない。でも治るかもしれない可能性があるなら娘と私のためにも頑張ってほしいと思っちゃう。夫は そうだね…。あー、ここらで人生しまいかあ と吐き出した。そんなこと言わないの!と冗談めかして言いながら、もっともっともっと、そういう弱音を吐いてほしいと思った。泣くのも我慢してほしくない。人がいないところで一人で泣くなんてことしてほしくない。
なにはともあれ火曜日の宣告だね。また夜に話そう、とひとまずその時は終えた。
大事な話の時に娘がよくぐずる。自分が構われてないのがいやなのだ。そうだよね、夜に話そう、娘ちゃんとの時間があるもんねえ、と三人で笑う。

保険の資料を見て、あー とか言う私の肩を撫でながら娘が「ばーばーぶだよ(大丈夫だよ)」と言ってくれたり、診断結果を聞いた時にも夫を撫でて「ぱぱ、げーきなるねー。ばーばーぶだよー」と言ったり。娘がいるって、生きる意味が増えていて最強パワーじゃないかと思う。
お夕飯時、娘に出したご飯があまり好みじゃなかったらしく「ほっかー、あーまりだったかぁ〜(そっかー、あんまりだったかー)」と私の真似をして伝えてきた。
爆笑してると夫が笑いながら「あー、やっぱり娘ちゃんのこういう言葉をもっと聞きたいなあ」とこぼす。

頭と心を整理したいから書いているが、時系列とかいろいろぐちゃぐちゃである。
夫の病気がわかってから、私は掃除魔人と化した。運気は掃除から!とぱっと朝早く一番乗りで目が覚めるようになったので、長らく放置していた駐車場などの掃き掃除や、ガスコンロ周り、電子レンジや冷蔵庫、目につくところを願掛けのように綺麗にした。元気になりますように、治りますようにと。

治ったら最初に何したい?と聞いたら、娘と思いっきり走り回るかなあと夫が言った。
これまで気恥ずかしくて自分から抱きついたり、大好きとなかなか伝えられないタイプだったが、毎日伝えている。どうして前からこうなれなかったかなあと思う。本当に。
ずっとずっとずっと、目一杯大切にしたい愛がそこにあるのに、なんてもったいないんだろう。

動悸で朝まで通して眠れなくなったおかげで、掃除がしやすい。こうやってnoteも書ける。

ついに7月4日、検査の日だ。
朝起きて、駐車場と家前の道路の掃除をした。その間に娘の起きた声が聞こえてくる。もう行くからねーと夫と娘のお茶をもって寝室にもどる。
おはよう、二人とも元気でありがとうと伝えてお茶を渡す。
夫が「前向きだったけど、手足の痺れが確実で、転移してるんだなってショックが大きい。肺がんの生存率も低いし…」と溢した。けど余命宣告されても治療するしないはわからないけど、長く生きてる人はいるよ、病は気からってやつで、変に調べたり考えすぎないの!気持ちはわかるけど…と笑いながら返せば、「けどおかんは余命宣告されたのより短命だった」と返ってきた。続けて「あとやっぱり火曜日は一人で行く。伝えるのにクッションを置きたい。お願い」
先日私は一緒になってはじめてワガママを発揮して、一人で結果を聞きに行くという夫に対し「一緒にいたい、一緒に聞きたい、ぜったい行く」と話していた。なのですぐには譲らなかった。だってまた一人で泣くじゃない、それは嫌なんだよ。
でも、と返す私の言葉途中、転がってた娘が「くっしょん!」と言いながら笑う。


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