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【レビュー】ハラサオリ トライアウト『絶景』


できて間もないDance Bace Yokohamaにお招きいただき、ハラサオリさんのトライアウトを見てきました。

久々のダンス鑑賞、久々のレビューです。
やはり生はいいですね……思考が活性化しますね……。
乱文にて失礼します。


『Metawindow』

会場を訪れると、すでに白い壁にプロジェクタで映像が投影されている。

人間のかたちをした何かが、人間とは違うリズムでうごめいている。「それ」はときに1つの塊となって地面にへばりつき、ときに3本の足ですらりと立る。カタツムリの触覚のように腕をにゅっと伸ばしたかと思えば、次の瞬間にはその腕が別の方向に向かって生えている……。

”Metawindow”は、ハラサオリが実際に踊った映像を学習データとして、AIアーティストの岸裕真が作った映像作品だという。
壁面で踊る「それ」は、ハラの痕跡を残しているが面影を残してはいない。ハラの色かたちをとどめているが、その運動はハラのアウラを感じさせない。それもそのはず、「それ」は人間とは違うルールで踊っている。

スクリーンに絵の具を溶いた水をまいたように、壁の一部に体がパシャッと散乱する。散乱した体の一部は、潮が引くかのようにふたたび本体へと戻っていく。
なるほど、どうやらここでは身体運用が、三次元空間ではなく平面において行われている。

我々の直観的な理解では、通常、かたちは身体運用を規定する。ダンサーの身体には、それ固有の運用の方法が刻み込まれている。癖、個性、歴史、美学……何と呼んでもよいが、それらの固有性はひとつには、身体のかたちによって規定される。

しかしながら平面においては、かたちは身体運用を規定しないのだ。「それ」を見ていると、まずそんなふうに思い至る。

いや、しかし、そうではない。「それ」は三次元のハラとは別のやりかたで、「それ」自身のルールに従っている。三次元を生き、筋肉と関節に運動を左右される我々とは違う新しいルールで、「それ」は二次元的に身体を運用する。三次元で踊る肉体を撮影して二次元に還元するのではなく、初めから平面上に展開された肉体として踊っている。

二次元の学習データから生まれ二次元で再生される「それ」は、そういう風に踊ることができる。逆にいえば、三次元のハラのように関節と筋肉を使って踊ることは、「それ」にはもうできない。

ダンサーやダンス鑑賞者ならば一度は通る悩みのひとつが、現場で経験したパフォーマンスと映像として記録されたダンスとの大きな乖離だろう。三次元空間のダンスを平面に還元することで、失われるものは思いのほか大きい。

現場ではなく映像で勝負するタイプのパフォーマーは、したがって、初めから平面のために踊ることを余儀なくされる。このあたり、COIVD19の流行で配信型の身体芸術が増えてきた今日、小さくない課題であるような気がしている。

"Metawindow"あるいは「それ」は、この問題への新しい解の可能性を示している。ひとつのポーズや様態から別の様態に連続的に移行することを運動と呼び、こうした運動を外部環境への反応によって為すことをダンスと呼ぶならば、「それ」の身体運用をダンスと呼ぶことにはいささかの抵抗も感じない。オンラインとインターフェースの時代において、最も新しいダンスとはこういうことなのだと、「それ」は自らの体で語っている。


『Perceptive room』

"Metawindow"の反対側の壁の前に、畳1枚分くらいのどっしりした机が置かれている。机の上を映した映像が、リアルタイムで机の向こうの壁に投影される。机の上にはまっさらな模造紙が広げられ、マッキーが転がっている。

パフォーマンスが始まると、片側にハラが座り、反対側に小暮香帆が座る。2人は両足をキッと踏ん張って、腕を棒のように使って模造紙のように線を引く。片方がリードして、片方がそれについていく。

マッキーが模造紙の滑らかな表面にをキューッと擦る音。
投影される2本の線の動き。

後から入ってきた4人のダンサーが、それらを各々の体に流し込んで動く。マッキー担当が次々と入れ替わり、そのたびに、ダンサーが踊るための外部環境が微妙に移り変わる。外部環境は各々の内部環境とのすり合わせによって、各々に固有の身体運用を誘発する。

場面変わって、登場したのは大きな鏡のついた車輪付きの什器。嶋津一馬、田中一平の両名が、ニの字に配置された客席の真ん中に什器を引きずり出し、ロックのかかったタイヤを引きずるような高く細い音を立てて、観客の目の前で鏡を回転させる。観客の視界が変わる。観客が、自らが置かれダンサーと共有している外部環境に、気がつく。

やがて2人が什器とともにハケるとき、突然ハラの声が会場に響く。

「上」

思わず上を見上げると、什器が今まさにそのそばを通り過ぎようとしていた柱の、上のほうに出っ張りがあり、その出っ張りに照明が取り付けられている。什器の一番上が、その証明にぶつかりそうになっていることに気がつく。ハラの発したアラートによって、観客はもう一度、いや初めて、自分の置かれた外部環境を意識する。

場面変わって小暮のソロ。続いてイシズカユウ(モデルらしい)が明らかにいわゆるダンサーではない歩き方で入ってくる。いわゆるダンサーそのものである小暮の身体運用と、染色体のように交叉する。2人並んでモデルォーク、ポーズ、からの、小暮は転げて床踊り。

次いでハラを除く3人のダンサーも入り交じり、やがてヒトとモノとが入り乱れ、どこを見ても何かが動いているその環境に身を置くと、とてもとても久しぶりに、劇場で情報量の洪水に浸る幸福を思い出す……。


プレスプレビューとして公開されていたこの日、アフォーダンス研究の第一人者である生体心理学者、佐々木正人が来場しており、ポストパフォーマンストークに飛び入り参加していた(『アフォーダンス入門』の著者だ! と思った)。

佐々木はその日何度も、「粘り」がいいね、と繰り返した。
そして「粘り」の説明をするために、魚の話をした。

Hydro dynamicsという分野で、水のもつ粘りについて研究している人がいる。水の中で生きる魚は、この水の粘りを標識にして行動するらしい。前の魚が運動した痕跡が粘りによって残存し、たとえば次に来た魚が、その粘りによってエサのありかを知る。

ああなるほど、とその例えで思った人が会場にどのくらいいたのかよくわからないが、個人的には目から鱗が落ちた。

外部環境が持つ、粘り、あるいは摩擦、あるいは重さ。ダンサーはこうした環境の粘調度によって/において/に対して踊っている。
たとえば、最も重要な外部環境とは言うまでもなく音であり、つまり音楽はそれぞれに粘調度を有する。音以外だとまずは床の滑り具合、あとは照明。舞台の上になにも置かれていない状況ならば、それが外部環境のすべてである。

そのうえで、"Dance to the music"であって"Dance for …"でも"Dance on …"でもないことの意味は、環境とダンサーの関係が双方向的だということにある。言葉を変えれば、すべての音楽はダンサーにとって環境だが、優れたダンサーは音楽に介入し環境を調整する。観客は、こうして調整され変容した環境を聴くのである。

さて、パフォーマンスにおいては、環境が存在するということのみならず、ダンサーと観客がその環境を共有することがある程度必要になる。身体運用を規定しているルールは、わからなくても面白いが、わかったほうが面白い。音楽ならば、その粘調度を共有することは極めて簡単である。光も簡単だ。床の滑り具合はわかりにくいが、まあ、これは別に共有する必要がないかもしれない。

たしか一昨年の『あさはかなあなたへ』(中野RAFT)だったか、ハラはパフォーマンスの途中で「音楽と照明使えば、それだけでけっこうそれっぽくなるのね」という趣旨のなかなか挑発的な台詞を吐いていたのだが、こうして今ハラが取り組んでいるのは、それらの定型的な環境要因以外のところで粘調度を発生せしめ、それをダンサー同士で、あるいはダンサーと観客の間で、共有することがいかにして可能かという課題であろう。

すでに魚であるダンサーが通ったあとの水の粘りを、いまだ魚ではない観客がいかにして知覚するか。困難だが不可能ではない。優れた身体芸術、否、環境芸術において、観客はいとも簡単に魚になり、ダンサーと観客はひとつの海を共有する。我々の体は、そのことをすでによく知っている。


ハラサオリ トライアウト『絶景』

【日程】2020年11月28日(金)・11月28日(土)・11月29日(日)
【会場】Dance Base Yokohama
【出演】
ハラサオリ
イシヅカユウ
小暮香帆
嶋津一馬
鈴木春香
田中一平
音楽:梅原 徹
映像:岸裕真

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