アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(9/12)

(9)「健康」のオートプレイ

…しかし、本当にそうでしょうか?

残念ながらそうではありません。奇しくもリブレの登場によって、その方法だけではうまくいかないことが証明されてしまいました。簡単なことです。アクセス性と操作性が確保されていることは、自ら身体を操作することの必要条件ではありますが、十分条件ではないからです。

ひと昔は「お任せ医療」といって、医者が飲めといった薬を飲み、医者が受けろと言った手術を受けることが患者行動のすべてでした。しかし90年代以降、医者が握っている患者の生体情報は本人に提供すべき、という考え方が浸透し、今日ではこちらが主流となっています[xvii]。所謂「パターナリズム(医師による父性主義)」から「インフォームドチョイス(患者が知ったうえで選ぶ)」へ、というこの意志決定スタイルの変化は、しかし、少なからず患者を困惑させてもきました。平たく言えば「先生、私素人ですし、そんなこと言われたって決められません」という困惑です。

こうした困惑は、リブレのような究極的なアクセス性においてもっとも露骨に顕在化します。診察室を離れてからも自らの身体にアクセスできる患者は、自らの「意志」と「責任」において、独りで治療的に振舞うことを要求されるからです。実はリブレによってゲームをうまくプレイするのは、ごく一部のユーザーにすぎません。その他のユーザーはリブレに「健康」からの逸脱を指摘されることを恐れるあまり、おちおち「食べる」こともできなくなってしまうか、逆にその逸脱にまったく注意を払わず生活し、病を放置するかのどちらかです。

革命によって機能を解放された新しいWatchMeで、自分の身体が時々刻々と変容するさまを直視し、そのたびに生じる膨大な情報をすべてフィードバックされた市民が、しかしそれでも「健康」であらねばならないというゲームそのものからは降りられず、いったい自分が次になにを「食べる」べきなのかすらわからずに途方に暮れる…そんな姿が目に浮かびます。ああ、身体の解離した我々にとって、「食べるものを選ぶ」ことはこんなにも難しいのです。

今となっては、ミァハが「意志」を標的化した理由もよくわかります。

ミァハはWHOの捜査官と邂逅する最後のシーンで、自身の原体験を口にします。幼いころ、隣の家の少年が生命主義社会の成員になることに耐えられず、自死を選び、このゲームを降りたこと。自身もそうであったように、その後同じように自死する若者の数は増え続けていること。多くの人が降りることを選ばねばならないようなクソゲーなら、それを書き換えてしまうのがよいと考えたこと。「ハーモニー・プログラム」を起動し市民の意志を統率制御してしまうことは、この理不尽なゲームを誰も降りずにすむよう調整することだということ。

ゲームの見立てで意訳するならば、つまるところ彼女の目的はこの困難なゲームを「オートプレイ化」することにあったのです。

前述のように、「ハーモニー・プログラム」によって意志を統率制御された市民は、買い物、食事、娯楽、その他あらゆる活動において「健康」なほうを自明に選び取るようになります。そこに「身体の操作性」はありません。「身体へのアクセス性」については、その必要すらありません。もはやゲームとは言いがたく、その点においては人道的とも言いにくいこのゲームチェンジは、しかし、ただのひとりも脱落者を出すことはありません。

言ってみればこれは全編をムービーで構成され、オートプレイで動くキャラクターを眺めるだけのゲームのようなもので、つまりはプレイヤーとキャラクターとに解離した身体を、完全にキャラクターの側に寄せて統合する試みです。ここで身体の再統合という当初の目的は、間違いなく達成されているのです。

なるほどそうだとすれば、我々はミァハの策を安易に棄却するわけにはいきません。全ての市民があまねく身体を再統合するためには、たしかに「ハーモニー・プログラム」のような方法しかないかもしれません。

しかし、それでは「ハーモニー・プログラム」すら持たない我々は、この解離した身体を、この困難な「健康」をどのように生きればいいのでしょう。そう、すでに述べたように、そのためのもうひとつの答えを導き出したのが國分功一郎でした。

(続きます)

[xvii] もともとは世界大戦中の悲惨な人体実験への反省から、被験者の権利の保護と医師の説明責任が強調されるようになってきたことによる。1981年に世界医師会で採択されたリスボン宣言に「個人の自己決定権」が明記された。日本医師会では1990年に「Informed concent:説明と同意」し、これが1997年の医療法改正によって法的に明文化された。最近ではconcentでなはくchoice:選択であるべきだ、とする向きがある。

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