アートとしての病、ゲームとしての健康 ―10年後に読む『ハーモニー』―(12/12)

(12)おわりに —アートとしての病—

「健康」を目指す「治療」にはさまざまなアプローチがあります。

オートをマニュアルに解体する、というのは、専門的には認知行動療法と呼ばれるやり方に近いかもしれません。それは従来治療者を必要としましたが、リブレのような形で身体へのアクセス性が確保されると、自ら「食べる」パターンを再構成できる人も出てきます。一方でオートプレイをオートプレイのまま自然に矯正していくのが、たとえばナッジと呼ばれる行動経済学的なテクニックであったり、環境調整と呼ばれる手法の考え方です。アプローチとしては、どちらもあるのがいいのでしょう。

しかしもっとも本質的なのは、時折訪れる、解離した病める身体と自己の身体のイメージが奇跡的に重なりあう瞬間を、見逃さずにとらえることではないか、という気がします。

オラファー・エリアソンという現代美術家がいます。
彼の最近の大きな仕事は、ニューヨークの中心を流れるイースト川に巨大な滝を作るというものでした。それまでニューヨーク市民にとって、イースト川は沐浴をする場所でも生活用水をくみ取る場所でもなく、自分とは無関係な景色のひとつにすぎませんでした。エリアソンのポンプは、イースト川の河水を高さ36メートルまで汲み上げ、またイースト川へと大きなしぶきをあげ放流します。それは生々しい河川のにおいを放ち、時に通行する者の頬を濡らしさえしたことでしょう。

その日ニューヨーク市民は、イースト川がたしかに水の流れる河川であることを思い出したのです。

アートは時に、我々が忘れていたこと、抑圧していたものを暴露します。かつて世界を震撼させた9.11同時多発テロを「アートの最大の作品」と呼んで顰蹙を買った人もいましたが、まさにこの意味において、身体にとって病とは最大のアートでもあります。
ゲームとしての「健康」は、アートとしての病によってその様相を変えます。解離した自己の身体と病める身体は、優れたアートによってはじめてぴたりと重なり合うのです。

若き日の御冷ミァハが自殺を試みたのは、ひとつには病を知らない生命主義社会で見失われた身体の輪郭を、痛みによって捉えなおすためでした。もっとありふれた例でいえば、生活習慣病を患いながらもどこか他人事のようだった患者は、苦痛に悶え救急車で運ばれながら、はじめてその病を自己の身体のうちに感じるようになります。
そしてひとたびこうして病める身体に触れた者は、そのバーチャルな身体の輪郭をたしかに想像できるようになるのです。

しかしなにも苦痛を伴わなくたって、我々の身体には日々さまざまな感覚が生じています。それらは知らず知らずのうちに行為形成の一因になっていたり、あるいは見落とされていたりします。この日々生み出され続けている小さいアートによって、我々の二つの身体はいつもわずかばかり触れ合っているのではなかろうか、といつも思います——ただし、そのささやかなアートに、適切な批評の眼差しが向けられている限りにおいては、ですが。

(終わります)


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