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ローザス「至上の愛」ROSAS ”A Love Supreme”

1. 概観

2019年5月9日から12日にかけて、池袋の東京芸術劇場にローザスがやってきた。今回の題材は、ジョン・コルトレーンの組曲 ”A love supreme” だ。

驚いた。何度でも見直したい公演だった。

それは一言で言えば、個別の身体とその個性を魅せることと、ユニゾンを踊ることがまったく無理なく共存していることの驚異だった。あるいは、身体が音楽とつかず離れず、 与えられた音=役割に没入したり、そこから遊離して別の音と戯れたり戯れなかったりするということを、極めて自然に、自由にやってのけていることの驚異だった。

ローザスは、1983年にベルギーで結成された、振付家アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルが率いるダンスカンパニーである。
ケースマイケル自身が「音楽市場における重要な作品に対して振付やダンスで応答することは、芸術的な挑戦であると考えています(当日パンフ)」と語るとおり、音楽的構造と身体運用の関係を意識した振付が高く評価されている。

「音楽を使ったダンス」は、しばしば「音楽にあわせてダンス」と誤解されている。まあそういう場合もたしかにあるのだが、音楽と身体運用がとりむすぶ関係は、実際にはもうすこし複雑で多様である。そういうことをまざまざと見せつけるかのような公演だった。

公演は、4人の男による無音でのコンタクトから始まる。

1人をほかの3人で支えてバランスをとる、あるいは持ち上げる。1人の動きにつられるようにして他の3人が動く。4人で手をつなぎ、互いの間に発生した張力をしばし楽しんだのち、バランスを崩しバラバラに散らばってめいめいで踊る。

やがて4人のうちの3人が舞台からはけて、体の大きい、髭の白人が舞台に1人残る。残された大男は、ダンスというダンスをしない。ただ立っていたり、ゆっくり歩いたり、しゃがんだり。なにかが始まる予兆のようにも見えない。なにかの具合を確かめるような身体運用を繰り返す。

最後に振付らしい振付をワンフレーズだけ踊った後、右手のひらを観客のほうに向けると、それを合図に音が入ってくる。「Love supreme」である。ベースにあわせて、別の男がゆらっ、と手をくゆらせる。ひとり、またひとり、とそれに続き、舞台は流れるようなユニゾンになだれ込む。

意味がわかるまでに少し時間がかかったが、4人の男の身体は、サックス・カルテットを構成する4つの楽器にそれぞれに割り付けられている。

サックスにThomas Vantuycom。最も大柄で獣のような身体。
ドラ厶にJose Paulo dos Santos。ただひとりの黒人の弾むような身体。
ピアノにRobin Haghi。 中肉中背の、ばっと見はとっかかりのない身体。
ベースにJason Respilieux。羊のように優しいもじゃもじゃ頭の、もっとも華奢で青白い身体。

この割り付け自体が、すでに高度に批評的な営みであったことを予め指摘しておきたい。

2. 身体

はじめに、ベースの腕が動く。

やわらかく、手をくゆらせる。その手に引き寄せられるようにして、ドラムの腕も同じように泳ぐ。ピアノも続く。リズム隊3人の滑るようなユニゾンの間をぬけて、サックスの獣のようにマッシブな身体が躍り出る。まさしく、サックスを中心に据えたカルテットを聴くときの体験がここに視覚化されている。

サックスに導かれるようにして3つの身体がなびくのもよいし、時折だれかがサックスと振付をあわせるのもよい。ドラム、ベースの2人がつつましやかに織りなす基底音もまたよい。強く主張しないが、彼等なしではサックスの身体運用は意味をなさない。ダンスにおける主旋律と副旋律について考える。

やがてサックスが引いて、ピアノソロに入る。これが一番驚いた。

音の連なりを細かいステップでとる、という技巧ももちろん優れているがそれ以上に、低音のアタックを腕から体幹の静かなヒットで捉える、その感性のほうが絶妙だ。
ヒットというのはトリートダンスのジャンルのひとつ、Poppinにおける基礎的なボキャブラリで、筋肉で体を弾くようにして動きの初動をつくる。彼のヒットを見ていると、ピアニストが鍵盤を指で踏み込むときのその圧が、彼の身体をぐっとはじき出しているような、そういう感じがする。

ピアノは決して繊細な楽器ではないのだ、ということがよくわかる身体運用だ。昔ジャズを聴いたときに、そのことに素直に驚いた記憶がある。音楽を聴かなくなって久しい僕はそんなことを当の昔に忘れていたが、今回彼の振付によって思い出し、もう一度驚いた。

曲が変わって、今度はドラムの激しいソロが始まる。エネルギーの詰め込まれた若い黒人の身体が、舞台の上でただひとり跳ねまわる。

安直の感がないではないが、非常に説得力がある。ドラムは一般的には叩くことによって音を出す楽器と理解されているが、むしろドラムが弾んでいると考えるのが正しいのではあるまいか、という気がし始める。そういう音に聞こえてくる。

ハイハットをジャンプや腕の跳ね上げで取る。スネアやバスドラムを弾けるようなステップでとる。これまたざっくり分類してしまえば、アフリカンダンスの身体運用が最も近い。アフリカといっても広いのでアフリカンという括り自体がそもそも雑なのだが、アフリカンは概して手でも首でも体幹でもなく、足の裏でリズムをとる。足の裏と地面との接触離別、踏んだと思えばその瞬間に跳ねる、そのたびに足の裏へ働くぴたぴたという反作用。あの感覚を思い出す。

こうなると、最後のベースのソロは一体どうなるのか、という期待で宙づりになる。残る1人の華奢な身体は、重低音という感じでは全然ない。ファッション雑誌にでも載っていそうな、文化的な風情のある青年である。あのか細い身体がどうやって音を出すのか。期待を胸に見守っているとそれは最後にやってくる。サックスがフェードアウトし、ピアノがそれに続き、寄り添うように対舞していたドラムも捌けてしまうと、物悲しいベースのソロが始まる。

ベースは飛んだり跳ねたりせず、繊細にフロアを滑る。重低音であるベースを、このもっとも華奢な身体で、細い腕の流れで、捉えうるという逆説。これが、妙にあう。

音をとる、ないし、音を出す、というダンスの基本を少しだけ横滑りさせて、波に乗るようにして重低音を乗りこなしながら、波の上ではたしかに彼自身の身体を誇示しているという趣。太い筆で力強く引かれた濃色の線の上に、細い筆で淡いハイライトを引いていくかのような趣。そしていつのまにか、ベースの音色のほうが彼の人格に、あるいは彼の生き方に、引き寄せられてく。きっとこの先、ベースの音を聴くたびに、僕は彼の身体を思い出すことになる。

3. 音楽

音に合わせて踊る、という一般的なダンスの理解がある。

もう一歩進んだところに、例えばストリートダンスでよく使われる「音ハメ」と呼ばれる振付の手法がある。
音ハメとは文字通り、音に身体運用をハメることで、多くの場合には特徴的なアタックに対する目配せとして行われる。言い方を変えれば、観客の大多数が明瞭に聞き取れる音に対して、視覚的な意味づけを行うような振付のことを指す。

しかし、楽曲はそうそうアタックばかりで構成されているわけではない。アタックを図とすれば、地に相当する音、つまり基底的に鳴り続けている音がある。音楽を使って踊る以上、図ではなく地をどう踊るかのほうが主問題となる。

こうした地の音に、つかずはなれず対峙し続けることはけっこう難しい。そういうわけで、一般的なストリートダンスのショーケースでは、一部の音ハメを除いてあとはリズムのみを利用する、というやり方で、楽曲とのあいだに距離を取り続けるようなものがしばしばある。そういう振付でも、リズムがとれていればそれなりに気持ちいいので、普通に盛り上がる。

思うに、優れた振付というはそういうものではない。音に対する解釈を提示し、場合によっては観客における音の聴こえ方に介入すること。音素に対して個別の身体運用を提示するのではなく、音楽に対して身体そのものを提示すること。さて、ここまではストリートダンスでもよく見かけるが、『至上の愛』において目を見張るべきポイントは、複数の音色に対してどのような身体をあてがうかがすでに批評的な価値判断となっている点だろう。これが、ひとつめのポイント。

そしてもうひとつ、その先にあるのは、聴こえない音で踊るという方法である。
たとえば、彼等が1人または複数人で繰り出す、両手両足をパッと広げて重心をわずかに下げるあの一瞬の動き。これがどの音をとっているのか、何度聴いてもわからない。わからないが、1つの楽器の1つの音を取っているのでないことはたしかで、それが複数の身体から同時に発せられるとき、そこに流れ続ける音の分節のようなものを幻視する。
あるいは、 複数人でタイミングのみを合わせ、ゆっくりと回るターン。しかし、回る、とはどんな音なのか。これも、特定の音を拾ったものではなかろう。しかし我々は、彼等のターンに合わせて、やはり音楽がそのようにゆっくりと回るのを聴く。

こうした魔術的な技巧は、ユニゾンにおいて極限に達する。

音がテーマを迎えるたびに、4人がつかず離れず位置を変えながら、同じ振付を踊る。 それぞれ別の楽器の音になりきった身体が、揃って同じ振付を踊るとき、彼等はいったい何に対して踊っているのか、というところがあらためてよくわからなくなる。主役のサックスに合わせて4人が踊っているのではない。4つの別々の音色=身体が協調して踊ることがテーマ=ユニゾンだということ、それは本来奇跡みたいな営みであるということの、素朴な驚きに立ち返る。

極めつけはボーカルだった。カルテットに割り付けられた4人の身体は、ボーカルを含んでいない。そこへ突如、コルトレーンの”love supreme, love supreme…”というリフレインが降ってくる。その瞬間、バラバラに音を出していた身体が、まるで磁石によって整列する砂鉄のようにひとつらなりになってユニゾンを踊りはじめる。

大げさではなく、あれは神が降臨した瞬間だと思った。

4. 無音

さてこのような経験を経て、再び冒頭を見る(というのうは、一度みてあまりに良かったので、翌日もう一度見に行ったのだ)。

1回目の鑑賞経験は、「身体を介して、鳴っている音が視える」という驚きだった。
しかし2回目の冒頭、これは「絶対に鳴ってはいない音が、身体から聴こえる」という新たな驚きだ。

薄々予想はしていたが、すべてを知ったあとでは、冒頭の無音のコンタクトはすでにジャズ・カルテットによるセッションに他ならない。音が聴こえる。いや、音そのものが聴こえているわけではない。まるで音楽の肉をそぎおとして、その骨格標本を眺めているかのような、そういう経験である。

再びピアノが去り、ベースが去り、ドラムが去り、サックスの音が舞台にひとり立っている。私は白人ダンサーのソロを見ていたのではなく、サックスのソロを聴いていた。
なにか具合を確かめるようなその身体運用は、自らが楽器としていかなる音を出しうるかを、ひとつひとつ試すためのものだった。ただ立つ、重心を乗せ換える、歩く、しゃがむ、といった身体運用から、いったいどのような音がなるのか。聴いたことがないので、想像するしかない。 鑑賞者各々の頭の中で、サックスの架空の音色が響く。静かなところでしか聞こえないその音楽を、ひとりひとりが個人的な体験として静かに聴く、その至福。

それにしても、なぜ無音のパートが音楽のパートよりも先なのか?
ダンサーそれぞれに楽器を割り付ける仕掛けをすべて見せてから無音のパートをやったほうが、やっていることは伝わりやすいはずだと思った。というか、初見で無音のソロを見ながらサックスの音を聴いた観客はひとりとしていないはずだ。

だがまあ、それでいいのかもしれない。「音楽市場における重要な作品に対して振付やダンスで応答する」という彼等のミッションは、その達成の過程において音楽とダンスの主従を明確に反転させている。
音楽に対してダンスがあるのではなく、ダンスが音楽に先行してある。結果として、身体と音楽の意外な調和に驚くことにもなる。そういう作品になっている。「応答(provide a choreographic answer)」というケースマイケルの言葉には、音楽を表現するなどという陳腐な水準にとどまらず、音楽を巨人の肩のように踏み台にして高みに跳ぼうとする、ダンサーの矜持が見てとれる。

***

「A Love Supreme~至上の愛」
2019年5月9日(木)~12日(日)
東京都 東京芸術劇場 プレイハウス

2019年5月17日(金)・18日(土)
愛知県 名古屋市芸術創造センター

振付:サルヴァ・サンチス、アンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケル
音楽:ジョン・コルトレーン「至上の愛」
出演:Thomas Vantuycom, Jose Paulo dos Santos, Robin Haghi, Jason Respilieux

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